ジェンダーフリー議論の方向性はいろいろあっていい

1月11日に当ブログで上野千鶴子ジェンダーフリー発言録をアップしたところ、それについて言及してくださったブログがありました。成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN―さんhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060112/p1、Kawakita on the Webさん http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060112です。

上野氏がジェンフリであるかないかが焦点になるよりは、別のところ、つまり都のパブリックに関する捉え方についての議論が起こるといいなと思う次第であります。

当ブログのスタンスとしては、都の方針に対する批判は当然のことであり、それを批判している方はたくさんおられるが、「ジェンダーフリー」概念そのものへのクリティカルな問い直しや女性運動の実践的戦略についての議論が少ないのであえてこういう方向の議論を喚起したいという考えをとっている。2002年時からこのような提起をしているのであるが、2006年時の現在でもこの主張は決して広がっているとはいえない。
その一方で、「ジェンダーフリー」議論で白熱するのは、グローバリズムの進行やネオリベラリズムの政策により雇用が悪化していることなど男性が周縁化されているやナショナリスティックな心情が強まっていることなどのアンチジェンダーフリー派の意識についてである。また、「ジェンダーフリー」の定義論争も盛んであるが、女性運動はいつから行政と足並みを揃えるようになったのか、といった「ジェンダーフリー」問題の根源的な議論は決して白熱していかない。
議論の方向はいろいろあっていい。
上野千鶴子氏が「ジェンダーフリー」についてどのような考えであるかということだけに限らず、ジェンダーコロキアムで語られた、地方で男女平等条例策定に尽力した女性運動家の活動実践についての報告や、東京の教育現場で80年代から混合名簿を闘いとってきた教員の活動報告やその考え方についてもぜひ聴き取っていただきたたい。そしてもっとこういった運動の歴史についても議論してもらいたい。
今の「ジェンダーフリー」や「ジェンダー」の議論で決定的に足りないのは、日常の政治や運動の経験に基づいた声であると思う。当ブログや、「ジェンダーフリー概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」サイトhttp://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/Personal22.htmlは、そうした現時点では周縁化された80年代からの女性運動の声を細々とでも伝えていく場でありたいと思っている。女性運動の歴史を伝える場が、特にインターネットではか細い声であることが気がかりだ。
日本の女性運動は90年代半ばで大きく舵を切ったのではないか。それ以前とは担い手が替わっているように思う。「行動する女たちの会」が1996年に20年の活動に幕を引いたのは、実は極めて象徴的なできごとだったのだと今になって見えてくる。それと90年代半ばに行政が導入した「ジェンダーフリー」が広まったこととの関係は実は関わりがあるのではないかと思われる。もっと運動に関わってきた方たがネットで声を出してくださるといいのだがなあ。