上野千鶴子氏「ジェンダーフリー」に関する発言記録

以下の毎日新聞記事「人権講座:上野教授の講師を拒否 都教育庁が思い過ごし」によると、上野千鶴子氏が「ジェンダーフリー」擁護派と誤解され、講座講師を外されたということである。上野氏は、「学問的な見地から、私は『ジェンダー・フリー』という言葉の使用は避けている」「都の委託拒否は見識不足だ」と述べているという。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060110k0000e040086000c.html

現在、アップされている2004年12月16日東大ジェンダーコロキアム集会「『ジェンダーフリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htm http://www.webfemi.net/?page_id=30に該当部分があります(テープ起こししたものを、ご本人の了解を得てアップしています)。
本日の当ブログでは、ちかじかアップ予定の「さわり」部分も含めた上野発言を以下に引用します。
なお、この集会の報告者5名の全報告内容とそれに対する上野氏コメントの全文は、上述の「『ジェンダーフリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」サイトで1週間以内にアップの予定です。

「私がこういう場に出られる理由は、私は行政と結託していないほうですので、ジェンダーフリーがバッシングを受けても、私自身がその対象にならなかったために、痛くもかゆくもないということがあります。」
「全体の感じとして私が思ったことはこういうことです。「ジェンダーフリー・バッシング」という現象それ自体は不愉快だしなんとかしたいが、だからといって「ジェンダーフリー」擁護に回る気持ちにはなれないというのが、教員Aさんを除けばここにいらっしゃる方の共通した立場だと思いますが、会場の中にはたぶん「ジェンダーフリー」擁護派に回りたい方もいらっしゃるかと思いますので、ここは議論したいと思いますが、、、。
   ただ、「ジェンダーフリー」擁護に回るかどうかということと、バックラッシュといかに闘うかという問題とは別の問題です。ただその際、私たちは妙な二者択一の踏み絵を踏まされるような感じになっています。バックラッシュと闘うべきかいなか、闘う際に「ジェンダーフリー」を擁護せねばならぬかどうか。「ジェンダーフリー」を擁護しないで、バックラッシュと闘う闘い方はあるか。それにはどうすればいいのか。あるいは「ジェンダーフリー」を擁護しないと言うときに、教員Aさんが危惧されたように、運動の中に分裂を持ち込むという、本来仲間であるべき人たちが割れるという不幸なことが起きるのかどうか、ということは検討の必要があります。
 もうちょっと具体的なご発言に則したコメントを申しあげますと、(中略)山口さんの意図はここにあると思うのは、ふつうにわかりやすいことばを使うということで、私はそれには100%賛成です。上野は難しいことばばかり使って誰に向けて書いているんだと言われますが、上野はバイリンガルです。つまり、アカデミックな場で使うのとそうでない日常用語の場で使う場合とでは、私はまったく用語を変えておりまして、その点では私は「ジェンダー・フリー」という言葉を使ったことがありません。なぜかと言うと、その意味が私にはわからないからです。それから「ジェンダー」という言葉も、私は一般向けには使いません。「ジェンダー」ということばを一切使わなくても話はいくらでもできますし、場合によってはフェミニズムということばすら使いません。このようなカタカナ言葉を使わなくても女性差別について話すことができますし、男女平等について語ることができると思いますので。ただ、バイリンガルだというのは、女性学はいまやダブル・スタンダードを持つ時代になったということを認めないわけにはいかない。女性学は一方では非常に実績をつくってきた学問ですので、水準が高くなりました。学問の世界ではグローバリゼーションは避けて通れません。自分の使っている用語が外国の学者と言語と概念を共有していることが前提でアーギュメントをする必要がありますから、その点では「ジェンダー」という言葉を使わずに議論することはもはやできません。だから、学問の用語としては使いますが、それをアカデミズムで使ったからといって、自然言語で使う必要はまったくない。ですからずっと私が違和感を感じ続けてきたのは、地方に講演に行って、「このへんじゃジェンダーて言っても通じないんですよ〜。遅れているんです」って言われるたびに、この人何言っているだろう、って思ってきました。「ジェンダー」って新しい用語ですし、カタカナ言葉ですし、定訳がありませんし、知らなくて当然じゃないですか。だからといってその地方の人が女性差別に苦しんでいないとか、男女平等に自覚的じゃないとかはいえないので、なんでこんなこと言うんだろうと昔から思ってきました。私はその点については、「ジェンダーフリー」推進派にいなかったのですが、これを責任と感じなければならないのかどうか。江原説では、「ジェンダーフリー」の流通を放置したことに責任があり、学者の怠慢だというのですが、怠慢だと言われても直接自分に実害がなければ、そんなものいちいち目くじら立てる必要がないんで、いろんなことばでいろんな人が思い思いに何かを言うっていうのは、ある運動の生成期にはいつでもあることですから、自分が使わないからと言ってその言葉を撲滅する必要はない。「ジェンダーフリー」を使う人がいたってなんていうこともない。私は使わないだけです。だから一つは、私はバイリンガルだと言いました。つまり学問のことばと日常用語とのダブルスタンダードを認めたうえで、日常用語としてはこなれないカタカタは使わないということです。2つめには、学術用語としてすら意味不明で定着していない、ジェンダー研究の業界で共通の了解がない概念を使わない、ということがあります。どちらの点から見ても、「ジェンダーフリー」は使わないという結論しか出ない、と言うのが私の立場です。で、代わりがあるかというと私はあると思っているのですがね。「男女平等」というりっぱな代わりが。 (中略)
この「男女共同参画」という用語法それ自体に行政のトリックがあったということは公認の事実でした。なぜかというと、「男女共同参画」の英語の定訳がジェンダー・イコーリティ(gender equality)なんです。それで、ジェンダー・イコーリティを日本語訳にすれば、「男女平等」にしかなり得ないんで、これを「男女共同参画」と訳すことには無理があります。こんな不自然なしかけまでやって、ある意味英語圏と日本語圏とで二枚舌を使いながらやってきたのが日本の行政です。ただ、ここで、このような形での行政批判を、研究者のあいだや運動体内部からやることへの是非という問題が出てくるでしょう。
私が「ジェンダーフリー」批判をした時に出てきた反応に、女性運動の中に分裂を持ちこむな、というものがありました。先ほど、斉藤さんから行政と女性学研究者の結託という発言が出ましたが、行政に参加していった研究者とそうでない研究者の間での分裂、あるいは手を汚したと思っている人びとと、手を汚してないと思っている人びとの間の相互の対立というのもありうるかもしれず、裏返しにいうと、これもさきほど斉藤さんがおっしゃった通り、行政主導型フェミニズムに巻きこまれていった研究者や言論を担った人たちに対する批判や抵抗が抑制されていく、それこそ後退を強いられいくということもあり得るので、これはどちらの可能性を考えても危ないことだと私は思っています。

以上は、「2004年12月16日東大における『ジェンダーフリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」集会にての上野千鶴子発言です。なお、『毎日』の記事がこれを書いたことはいいと思うのですが、最後の「ジェンダーフリー」の解説はあまりに「見識不足」ですね。ああ〜〜

【追記】この東大ジェンダーコロキアム報告について言及してくださっているブロガーさんがちらほら・・。 成城トランスカレッジ! ―人文系NEWS & COLUMN―さんhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060104/p1、Kawakita on the Webさん http://d.hatena.ne.jp/kwkt/20060104です。

【2010.01.19:リンクを修正しました。】