女性学とカタカナ語「ジェンダー」
Hituziのブログじゃがーさんがすでに紹介してくださっているが、『社会言語学』9号が刊行された。ここに、「女性学は何のためにカタカナ語「ジェンダー」を守るのか−社会言語学的アプローチによる「ジェンダー」受容過程の再検討」という拙稿が掲載された。かどやまさのりさんはじめ雑誌刊行会の方々ならびに友人の叱咤激励によりこの原稿をまとめることができた。ありがとう。
これは、「バックラッシュ」と呼ばれる保守派への対抗策として女性学により「ジェンダー」概念を擁護する対応がとられたのは一体どうしてなのか、を考察した論文である。それを論ずるに当たって、「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」というカタカナ語が国の男女共同参画政策とどのように関わっているか、から説きはじめているので40頁近い長々とした論文になった。
ここで主に論じたのは、このカタカナ語「ジェンダー」擁護が「国際的・学術的概念」を根拠としていること、英語genderの翻訳語とカタカナ語「ジェンダー」との区別が不明確なこともあり、「ジェンダー」で意味することが多種多様であり拡散していること、そのため解説する専門家エキスパートが大きな働きをする「プラスチック・ワード」現象と類似の状況を生み出していること、「ジェンダーチェック」にみるように「ジェンダー」導入が学者と行政の専門家集団により上意下達で行われたこと、についてである。
この問題意識は、昨年来、Igala(国際言語とジェンダー学会)やアジア研究学会、日本女性学会などで議論してきたことであり、またそれはこのブログでもご報告してきているので、これまで関心を寄せていただいている方にはぜひご一読いただき、ご批判をいただければと願っている。
思えばわたしが女性学の方向性に疑問を持ったのは、2002年に富山市で発覚した学校給食パンの性差別問題への対応に、全国から「ジェンダーフリー教育を」という声が上がった時からだった。中学校の給食で出される女子のパンが男子のパンより小さいという問題が性差別ではなく「ジェンダーフリー」として語られることへの違和感であり、そのために「女子が性差別を受けていること」が議論されないままうやむやにこの事態だけは改善されていったことへのもどかしさであった。結局、何が問題でだからどう改善されたのかをだれも認識しないまま、状況だけが非難されない方向へと変わっていったのであった。「ジェンダーフリー」というカタカナ語が人々の思考を奪っているという実態に恐ろしさを感じた。しかも、そのことに疑問を持つ人があまりにも少ないことに脅威も感じた。
この問題意識がその後、「ふぇみん」への投稿、東大ジェンダーコロキアムでの問題提起、ブログでの議論、学会での発表などを経てこのような形で発表の機会を得ることができた。だが、このようにまとめる間にも、女性学やフェミニズムが一般社会といっそう乖離していく状況が深刻さを増していると感じる。例えば、事業仕分けにおける国立女性教育会館のあり方議論が起きた際、女性学はヌエック擁護の動きを起こしたが、そのやり方も一般に通じるものではなかったように思った。また、富山でのさまざまの活動、運動経験を経て危機感を持つことが多くなっている。現在の男女共同参画政策が現状変革にあまり力を発揮できなくなっていることに心を痛めている。このような文章を書くのであるから、草の根活動として性差別の解消に何で貢献できるかも模索しているところだ。
話を『社会言語学』9号にもどす。この号は、12の論文、6つの書評などからなる分厚い一冊だ。書評には、中村桃子さんの『「女ことば」はつくられる』(ひつじ書房)および『<性>と日本語ーことばがつくる女と男』も載っている。このブログにいらしてくださっている方には興味深い一冊ではないだろうか。これが3000円というのは(一見高いようだが)お値打ち価格だと思う。ご購入はこちらからどうぞ。他の論文についても、機会をみて触れていきたい。