カタカナことば「ジェンダー」に紛れ込む英語イデオロギー

ニュージーランドウェリントンでの国際言語とジェンダー学会IGALA5でしゃべってきたことをちょっと報告します。今度の発表は、「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」などジェンダー関連語について、だれがどのような目的で導入したか、実際に用いられる過程でどのような意味や用法として受容されていったかについてざっと見て、英語借用語が日本文化とどのように絡み合い意味づけされてきたかを考えるという趣旨でした。特に、ジェンダージェンダーフリーなどの英語借用語の受容過程において、日本において英語という言語に対するイデオロギーが介在していることを指摘することにポイントがありました。

なお上に添えた写真は、学会閉会時の模様です。(こじんまりな学会なので、歌や音楽もあったりするなごやかな学会でした)

日本では、1990年代以降、男女平等教育や政策において地方自治体や研究者によって英語由来の「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」という借用語が使われるようになったこと、しかし、それらは一般に定着していないという現状を話しました。国立国語研究所が2002-3年に行った調査では、「ジェンダー」を知っているという人の割合は18%、理解できる人は10%、使う人は5%という低さにとどまっています。これはこちらに載っています。外来語でもストレス、リサイクル、ヴォランティアが90%以上、テーマ、サンプル、リーダーシップが85%以上と、日本語で定着しているのは、日常生活に密着した具体的なものが多いようです。「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」は道徳的、教育的な意味で使われている以上、定着しずらい面があるんじゃないかと思われるのです。だから、学術的な領域でのみ定着しているのは理解できるように思います。

その一方で、「ジェンダー」関連語は、「ジェンダーマップ」というすごろく様のゲーム(東京女性財団)や「ジェンダーカルタ」たとえば、こちらこちらなど多岐にわたっていることを紹介しました。「ジェンダーマップ」や「ジェンダーカルタ」を会場で回したのですが、とても関心をもってみておられたようです。

しかしながら、「ジェンダーチェック」という性別役割測定表が開発され、「1夫のことを「主人」と呼ぶのは当たり前である。」「2妻は夫を立てるべきだ。」などという問いに、「yes」「yes」というと、行政から「発展途上人」や「古式ソーゼン」「赤信号」などとブーイングされるということも報告したら、ちょっととまどいの表情を浮かべられておられたように思いました。役所から自分の行動をチェックされ、態度を束縛されるのはやはり行き過ぎだと思います。また、それらの「ジェンダーチェック」では、たとえばここをみるとわかるように動物の絵ですが、「夫」と「妻」、「男」と「女」というのがネクタイとエプロン・スカーフという形で明確に、男女二元制を強調するものでもあり、意味がないどころが弊害が大きいということも言いました。ちょっと付け加えて、「ジェンダーチェック」という言葉をグーグル検索すると、こういうかわいいイラストつきの日本の行政サイトがたくさんヒットしますからぜひみてください、と言ったら英語ではこのように性役割度をチェックするという意味での「ジェンダーチェック」ということばはないので、受けていました。実際に英語でgendercheckをググってみると、静岡県やら和歌山県ジェンダーチェック表が出てきますからねー。日本語サイトが上位にあがるのです。ドイツ語のジェンダーチェック(これは別の意味らしい)というのも上位にあがり英語のジェンダーチェックは上位には出てきません。わたしは、このような「ジェンダーチェック」は行き過ぎだったと思います。それに対し、保守派から「ジェンダーフリー」が思想統制だとする反対運動が起きたのもいた仕方ない面があったなあと思うわけです。

このほかひなまつり廃止問題とか、富山市の森市長の「ジェンダーフリー=両性具有のかたつむり説」などに触れた後、日本女性学会の「女性学ジェンダー学」および「ジェンダー」概念バッシングに関する日本女性学会の声明」について議論しました。声明についての全文は、こちらを参照ください。というのは、この声明は、全般的に言って、英語でのgenderという概念と日本語での英語借用語であるカタカタの「ジェンダー」との融合というか、ごっちゃにした混同が見られるように思ったからです。声明では以下のような文言がありました。

男女共同参画」の英訳が“Gender Equality” であるように、両性の平等について発言・思考するにあたって「ジェンダー」概念を用いないことなどおよそ不可能である。

ここでは、英語借用語であるカタカタの「ジェンダー」と英語のgenderの融合というか、混同が見られるように思う。 カタカタの「ジェンダー」を使わなくとも、「両性の平等」について発言したり、思考したりできますよね。実際問題、この声明でも、「両性の平等」ってことばでそのことを伝えているわけだし・・・。

すでに国際標準となった「ジェンダー」概念を使用しないなどと決めれば、日本は世界に向けて有意味な学問的発信ができなくなるばかりか、侮蔑と嘲笑の対象となるであろう。

「世界に向けて学問的な発信」をする際には、「英語帝国主義」の世の中では好むと好まざるとにかかわらず「英語」(やその他欧米語)で発信することを求められるのが現実である。日本語のカタカナ「ジェンダー」を使わなくても「世界に向けて発信」するのは可能だと思われる。「侮蔑と嘲笑の対象となるであろう。」とあるが、別にカタカナの「ジェンダー」を政府が行政文書で使わないといったというだけでだれも日本を「侮蔑と嘲笑の対象」とすることはないはずだ。それよりむしろこのように英語借用語の「ジェンダー」と英語のgenderを混同した上に、英語借用「ジェンダー」に過剰な思い入れを込めることに、日本社会での英語文化をより進んだものとみなすイデオロギーが気づかずに滑り込んでいると考える。英語の概念である「ジェンダー」のほうが日本語である「性差別の解消」や「両性の平等」よりもより進んだ概念だと考えるから、英語のgenderの先進性が込められたカタカナの「ジェンダー」が行政文書で使われないことにこれだけ過剰な反応をみせるのではないだろうか。

これが、男女共同参画社会基本法で規定されている「性差別」や、憲法で明記されている「両性の平等」を使用禁止というのであれば大変だが(法律で規定されるからありえないだろうが)、法律で規定されていない、一般に認知度の低い「ジェンダー」に使用制限がかかったからと言って、このように大上段に構えた声明を出すほどの必要があったのだろうか。ここには、カタカナの「ジェンダー」と英語のgenderを混同していることに気づかないくらい英語圏文化を権威とするイデオロギーが介在しているように思われる。

さらに、この声明では以下のようなくだりもある。

こうしたジェンダー平等の視点はもはや国際標準となっており、わが国の男女雇用機会均等法や育児・介護休業法、男女共同参画社会基本法、DV防止法等もその流れの中で策定されたものである。そして、男女共同参画社会基本法は、このような流れの中で、「ジェンダー」概念を包含しつつ打ち立てられた、日本社会の民主化と進展の重要な一里塚であった。しかしながら、今、この国際的努力の成果が、拙速な議論のもとに反故にされようとしている。「ジェンダー」という用語の使用制限の要求は学問的に見れば非常識と言わざるを得ず、もしこのような要求をもとに、関連教育や男女平等政策への介入、男女共同参画社会基本法の骨抜き(内容の後退)、ジェンダー関係の書籍の排斥などが行われるのであれば、それは、「学問の自由」に対する侵害であり、国際的・国内的に積み重ねられてきた人々の英知に対する裏切りである。

「「ジェンダー」という用語の使用制限の要求は学問的に見れば非常識と言わざるを得ず」というが、「ジェンダー」というカタカナ語を政府や自治体が使わないということは通達で出たが、それは学問領域での「ジェンダー」の使用まで制限するものではないだろう。先の述べた「ジェンダーチェック」などの事例は決して誇れるものではない。「ジェンダー」で扱っている内容の精査もなく「ジェンダー」概念だからすばらしいといっているように見えるのは学会の声明としては舌足らずな印象を与えるのではないだろうかこのように「ジェンダー」概念がすべてすばらしいことのように言うのはどうだろうか。しかも、「「学問の自由」に対する侵害であり、国際的・国内的に積み重ねられてきた人々の英知に対する裏切りである」とまで言うか・・・・とも思う。「学問の自由」を侵害したというのを具体的には何を指しているのだろうか。 学問領域においてまで「ジェンダー」を使うなとはだれも言っていないではないか。こうした文章には、「ジェンダー」概念に対するいささか過剰な期待が込められているように感じられ違和感がある。そして、このような「ジェンダー」というカタカナことばに込められる過剰な期待には、英語圏文化や英語圏の知を権威とすることを疑わないイデオロギーが紛れ込んでいるように感じられてならない。

学会では、日本での「ジェンダー」受容状況と、それへの反発にかいま見る性差別的な日本状況に対する反応がありました。英語では使わない「ジェンダーフリー」が日本に行くとみんな使っているのでこれはどうしてか、とずっと思っていたという方からどうしてこんなことになったのか、という質問も出ました。たまたま司会者も日本語スピーカーだったために途中から日本語聴き手がスピーカーばかりとなり、「日本語でいい?」といって質問されるという海外の学会では異例の展開になりました。

日本における「ジェンダー」関連語の広まりと混迷について報告し、受容過程で日本社会にある欧米文化をより開明的なものとみなすイデオロギーが意味の構築に大きな影響を与えていたということを発表してきました。日本におけるカタカナことばとそれに紛れ込む英語イデオロギーについてはまだ十分練れていないので、さらに考え続けていきたいと思っています。