「批判的社会言語学」とフェミニスト言語学の対話:中村桃子『<性>と日本語』の書評

 『社会言語学』9号の記事についてちらちら紹介する約束だった。書評の中に、中村桃子『<性>と日本語』と佐藤慎司・ドーア根理子『文化、ことば、教育ー日本語/日本語の教育の「標準」を超えて』が取りあげられている。これはいずれも、拙ブログでおよび、Social Science Japan Journal 最新号において、わたしも書評を書いたことがあるので、まず触れてみたい。今回は、前者の中村桃子本の書評について取りあげる。

 『社会言語学』における中村桃子『<性>と日本語』の書評を書いたのは木村護郎クリストフである。木村は、同書が「正しさ」にとらわれがちな日本語とわたしたちの関係を「自由な表現や豊かなコミュニケーションをうながすもの」としてとらえなおそうという問題意識をもつと述べる。そして、「階級や職業が流動的になった現代社会において「性」(ジェンダーセクシュアリティ)が「私たちのアイデンティティのもっとも根源的な側面を形成している」という視点に立ち、日本語が「異性愛規範を支えつづける強力な言語的装置」という側面をもつことを指摘していると述べている。この点はわたしがかつてブログで書いた点とも重なる。

 木村は、「日本語の標準語が、主に男性を話し手として想定して形成されたことによって男性性を含む」ことを示している点は、本書ではじめてことばと性の問題に接する読者はハッとする箇所だという指摘をしている。これは確かに、本書の重要なポイントの一つだと思う。また、「正しい日本語」へと回収させる力に抗するための提案として「専門家」のメタ言説を無批判に受け入れないこと、ことばの「乱れ」言説に惑わされないこと、他人の言語行為を理解しようとすることの3点を提案していることも評価している。
 
 ただ、木村の考察ですんなりとうなづけなかった点が一つある。それは、「日本語における「性」の問題をそれ自体としてとりあげて分析するだけではなく、「言語資源」や「言語イデオロギー」といったより大きな枠組みの中で現状変革を視野に入れた考察を進めている点で、本書は「批判的社会言語学」への格好の入門書ともなっている」(p.324)という箇所である。

 「言語資源」や「言語イデオロギー」という概念に即して考えることを「性の問題をそれ自体としてとりあげて分析すること」よりも「より大きな枠組み」だとみなしているように見える点にひっかかった。「性の問題をそれ自体としてとりあげて分析すること」だけでは枠組みが小さいか、あるいは枠組みがないために「批判的社会言語学」には入らないという解釈が可能だからだ。

 というのも、フェミニスト言語研究は、「性」の問題を分析する際には常に言語を相対化する概念を必要としてきた。例えば、中村は『ことばとフェミニズム』(1995)でも「ディスコース」や「イデオロギー」という概念を使って「性」の問題を分析している。また、「現状変革を視野に入れた考察」については、フェミニズム誕生の折から持ち続けているスタンスである。これはある程度、共通認識と言っていいだろう。

 木村が「批判的社会言語学」たる必須条件に、社会言語学的な概念を使っていることを挙げているように見える点がなんとも納得できないのである(木村が挙げている「批判的社会言語学」が何をさすのかは書かれていないが)。これを機に、「批判的社会言語学」を名乗る人々とフェミニスト言語研究の対話が始まる必要があることだけは疑いのないところだ。