中村桃子編『ジェンダーで学ぶ言語学』が刊行されました。

「女ことば」「男ことば」方言、マンガ、テレビドラマ、恋愛小説などの「ことば」を題材に、ことばが「女性性」「男性性」(本書ではこの「ジェンダー」を軸に書かれています)とどのようにかかわっているのかについて考えるためのテキストです。こんなラインアップです。

ジェンダーで学ぶ言語学

ジェンダーで学ぶ言語学

  

 以下は、冒頭の「0 ことばとジェンダーのかかわり」(中村桃子)からの引用です。

なぜことばからジェンダーについて考えるのか。それは、人間の性に関して私たちが当たり前だと信じていることは、言語によって語られることで常識になったと考えられているからである。それだけではない。私たちが「女/男らしさ」を表現するときに利用するもののひとつも、言葉づかいである。

ことばが「性」の常識を作りあげ、私たちがことばを材料としてジェンダーを表現しているとしたら、今ある「性」の常識を変革することができるのも言語だといえる。言語とジェンダーのかかわりを学ぶことは、性をめぐる社会の仕組みや、社会における自分自身を理解するだけでなく、よりよい社会を実現することにつながるのである。


 わたしの「差別表現とガイドラインー差別をつくる/変えることば」は、フェミニズム運動がことばを変える取り組みを進めてきたことが忘れられているように感じ、70年代以降の運動の取り組みとそのように立ち上がる社会背景を紹介したものです。女が少し行動するとすぐに「赤い気炎をあげた」とか「黄色い声をはりあげている」などとメディアで嘲笑されるのがオチでした。「もてないブスのひがみ」とせせら笑われたのでした。女が25才をすぎて独身でいると、「クリスマスケーキ」と言われた時代でした。女の商品価値は12月25日になると投げ売りになるクリスマスケーキと同じで、25もすぎると値崩れしていると考えられていたのでした。今こんな話をしてもピンと来ないことでしょうが、「ことば」が時代の価値観をが表現していることには気づいていただけると思います。

なお「ジェンダー」を軸に説明している点に、わたし自身今から読み返すとちょっと複雑な気分も感じるのは、本書原稿を脱稿した後に『社会言語学』9号に「女性学は何のためにカタカナ語ジェンダー』を守るのか」を書いているからかもしれません。書いた時期の関係で自分の中でもちょっと収まりの悪さを感じたりする面もあります。お気づきの点はまたご指摘していただければさらに考えていきたいと思っています。

 他の方の章は、ぜひお読みいただきたいです。わたしもこれから読ませていただきます。