細谷さんの「ジェンダー平等」論へのつっこみ
ご縁があって、「I 女のしんぶん」(発行:I女性会議)をとることになった。今日しんぶんが初めて届いた。2月25日号である。一覧して思ったのは、「ジェンダー平等」ってことばと「ジェンダー・バッシング」「バックラッシュ」ってことばが紙面にあふれているなあーということだった。「続出するジェンダー・バッシング 男女共同参画政策が後退」とか「なぜ狙われる ジェンダー平等」とか・・・。なんだかヘンと思いつつ、トップ記事を読んでみた。「なぜ狙われる ジェンダー平等 ー男女の役割を固定したいバックラッシュ派 細谷実さん(関東学院大学教授)」という8段抜きのおおきな記事だ。本ブログではおなじみ(?)の細谷さんの寄稿記事のようだ。しかもいつものように、つっこみどころ満載である。
リード部分は以下の通り。
男女共同参画社会基本法が公布されからほぼ10年が経過し、日本でもジェンダー平等への一定のコンセンサスが得られつつある。しかしその一方、さまざまな場での攻撃的な揺り返し、「ジェンダー・バックラッシュ」が激しくなっている。「ジェンダー・フリー」の言葉狩りに留まらず、性教育批判、DV防止法批判、女性センター存続問題、ジェンダー関連図書撤去など枚挙にいとまがない。これらの動きの社会的・思想的な背景について、関東学院大学教授の細谷実さんに解説していただいた。
冒頭のリード部分では、「『ジェンダー・バックラッシュ』がはげしくなっている。(中略)これらの動きの社会的・思想的な背景について、関東学院大学教授の細谷実さんに解説していただいた」とある。ここでちょっとひっかかった。他の女性寄稿者の記事のリードには、「○○○子さんが報告する。」とあるのに対し、細谷さんのだけは、「細谷実さんに解説していただいた。」と謙譲語が使われている。「報告」ではなく「解説」と「解きほぐして説明する」と傾聴を要請するモードだし、さらに「いただいた」と謙譲語が使われており、とてもへりくだって細谷さんの解説を拝聴するモードに誘導されるリードである。
続いて、細谷さんの「解説」になる。しかし、こんな解説なら、聞かないほうがましだと思えるほど、ヘンである。メモ書きになるが、指摘しておきたいと思う。
戦後の憲法24条や家族に関する民法は、男性の特権を廃止し、戦前的なイメージでの家父長制を終焉させた。しかし、それは法的で形式的な平等であり、その個別性(当該個人たちの決定)に委ねられていた。そして、個人の決定は、社会の通念や通例や慣行等の大きな影響下にある。その結果、例えば、結婚後の姓の多くは男性側の姓となった。あるいは、結婚や子育てや介護で共働きが困難になあると、たいていは女性たちが仕事を辞めて家庭に入った。ほとんどの場合、そうした決定は社会通念に基づいた当事者である男女の暗黙の「合意」であり、法による強制ではなかった。そして、前記の社会通念等の核にあったのは、「男と女は異質ゆえに相互補完的」という考え方であった。ともあれ、それでも1940年代後半においては、憲法や教育基本法などで男女平等や性による差別禁止が明記され、日本のジェンダー政策は世界の最先端を歩んでいた。
ところが、60年代の終わりから、欧米の先進諸国では、第二波フェミニズムが広がり、労働や家庭や性(セクシュアリティ)や性役割の場面における平等化が少しずつ進み始めた。
日本では、それがちょうど欧米よりも十数年遅れての戦後経済の好況期と重なり、人々は、恋愛と性役割に基づく近代家族(専業主婦と企業戦士の夫からなる核家族。互いの役割は異なれども平等かつ相互補完的)を創り出すことを目指した。
その中で、それに対するウーマン・リブの疑問の声は、社会改革として現実化されることはなかった。その結果、日本における男女平等は、20世紀の終わり頃には、世界的な考え方と基準(社会的活動や家庭的活動における共通の参画度や対等なパートナーシップ)に照らして見た時、先進諸国で最低、途上国にもいくつかの指標では追い抜かれる状況となっていた。
おそらくお読みになられた方は、いくつもつっこみどころに気がつかれたことと思う。わたしには細谷さんの主張で疑問な点はたくさんあったが、まず、明らかに違うと思う点から書く。
1)「1940年代後半においては、憲法や教育基本法などで男女平等や性による差別禁止が明記され、日本のジェンダー政策は世界の最先端を歩んでいた。」というが、1940年代後半には「性による差別禁止が明記され」てはいなかったのではないか。1999年に男女共同参画社会基本法により初めて「第三条 男女共同参画社会の形成は、男女の個人としての尊厳が重んぜられること、男女が性別による差別的取扱いを受けないこと」と明記されたと聞いたものだ。40年代にどの法律で「性差別禁止」が明文化されていたのだろうか。
2)「1940年代後半においては、・・・日本のジェンダー政策は世界の最先端を歩んでいた。」その後、「ウーマン・リブの疑問の声は、社会改革として現実化されることはなかった」ので、「20世紀の終わり頃には・・・先進諸国で最低、途上国にもいくつかの指標では追い抜かれる状況となっていた。」とあるが、このあとで「国連での女性差別撤廃条約という外圧もあり」という記述もある。細谷さんのこのジェンダー史観は、フェミニズム運動を無力化するもので由々しき歴史観である。なんでも欧米諸国をあがめ、外圧を理由にするのはいかがなものか。実際、ウーマンリブ(やその後のさまざまなフェミニズム運動)のうねりがセクハラ、DV,痴漢、レイプなど性暴力についての法律や制度化につながったことはまぎれもない事実である。
3)次に、わかりにくい細谷記事をかみ砕いて考えてみる。なんでも「個人」の問題とする細谷さんは、個人の決定が「社会通念」にもとづいているとして社会通念を非難する。「男と女は異質ゆえに相互補完的」というフレーズと、「互いの役割は異なれども平等かつ相互補完的」というフレーズがそれだ。この記事では、この紛らわしいフレーズが6回以上登場する。ちょっと異常なくらいの出現率だ、、。しかも、極めつけは、「妊娠におけるように『男と女は異質ゆえに相互補完的』という場面もある」とすら書いているのだ。妊娠って相互補完的なものだったかなあ?? 一体、何が言いたいのだろうか。
どうも、悪いのは、人々の頭のなかの「男と女は異っているからお互い補いあいましょう」とか「男女は役割分業して補いあおう」という発想だと言いたいようだ。えっと、「ジェンダー平等」ってそういうことが問題の核心だっただろうか? これを読んで、ずいぶん「意識」中心主義に退却してしまったなあ、選択制別姓すら俎上にあがってこない、制度を変えるところには関心いかないんだ、とがっくりした。少なくとも1990年代まではフェミニズムは身近なところでの制度改革や法律改正に関心を集めようとしていたように思う。「解説」がこれではフェミニズムが前に進めるわけがない、こんな後退した意識中心主義の解説なんかいらないと思った。細谷さんは「なぜ狙われるジェンダー平等」の答えとして「バックラッシュ派」は、「男女の役割を固定したがっているからだ」と言いたいようなのだが、これでは細谷さんが意識問題に関心を集中させようとする「バックラッシュ派」の思うつぼではないか。ミイラ取りがミイラになったようなものだ。
4)結婚後の姓の多くが男性側の性となったことをもって「『個別性(個人たちの決定)』に委ねられていた」というが、本当にそうだろうか。「結婚」に際して「夫婦」で一つの姓を選択するよう強制している法律があるから、それを「選択的夫婦別姓制度」とするように提案されているのではないだろうか。なんでも「個人の決定」に委ねられていたとみなすのでは、法律改正する必要がないということになるではないか。ちょっとおかしくないか、細谷さん。
とりあえず、若干のつっこみをさせていただいた。ほかにも細谷さんの記事には、「バックラッシュ」の定義とかいろいろおかしなところがあるが、今日はここまでにしとく。