ちょっとした補足

前エントリーで細谷実さんが「男と女は異質ゆえに相互補完的」という考え方にとらわれすぎておられると書いた。なぜ性別特性論にこだわることがまずいのかについてちょっとだけ補足させていただく。こだわっていないという反論もあろうかと思うが、いくら相手の主張だといえども、6回以上もそれを繰り返すということはご本人もいくら反論するためであれ、その論点が重要なものだと見なしていることになる。わたしはこの論点を重視すること自体、大きな問題をもつと考えている。それは、性別特性が現在の日本の状況では性差別問題の障害とはみなすことができないこと、さらに現在の課題でもないことにこだわり、他の論点を論じないことは、「男と女という二分法とその心理的要因」だけを問題にすることになり、女性の間の差異、例えば、地方との格差の問題、世代間格差の問題、セクシュアル・マイノリティの問題など多々ある性差別にまつわる問題がふっとんでしまうからだ。。前エントリーは、つきつめるとこの点への疑問であった。いつまでも「専業主婦と企業戦士」「互いの役割は異なれども相互補完的」という「普遍的男女」についてとみなされる論点ばかりを論じているかのように理解される。異性愛だって前提とされているし、、。これでは、フェミニズムがいつまでも「男女」という二元論とその心理的要因(性別ごとに特性があるということ)だけを性差別問題と認識し、他のことは些末な問題と切り捨てているようにみなされてしまいそうだからだ。

フェミニズムが「男/女」や「主観/客観」「精神/身体」「論理/感情」「科学/自然」などの近代啓蒙思想の二元論的考えに疑義を呈してきたことは、哲学を専門とされている細谷さんにわたしが言うのもおこがましいれっきとした事実である。それをわかっておられるだろうに、どうしてこうも「男と女」「性別特性」「性役割」「男と女は異質ゆえに相互補完的」という二元的考えに固執されるのだろうか。「敵」がそうだからといわれるかもしれないが、それにしてもこれだけ呪文のように繰り返されりと、嘘も真になるというか、「男女は補完的」といったステレオタイプそのものを永続化することになりかねない。少なくとも、多くの読者に今「ジェンダー平等で問題になっているのは性別特性だ」と誤解を与えるだろう。それと、細谷さんは原稿の中で性別特性のほかに「性役割」もあげているが、女性学には心理学的要因を重視する傾向が依然として根強いのかなという気がした。それも性差別問題を論ずる際に大きなネックとなっていると思う。いつまでも「普遍的」個人レベルの心理要因だけを問題にして制度面や女性間の差異をはじめとする権力関係をおきざりにするのはどうか。

それに、「性別特性」を論点としたらまずいことはもっとある。仮に障害が「性別特性的考え」であったとしても、それを繰り返して強調するだけでは解決しない。また、それを同定することで不公平な状況(性別特性論は不公平な状況と言えるのだろうか?)を何とかしなければならないと受け止められることもない。どれだけ性別特性論がまずい、まずいと繰り返しても、結局、「既婚女はパートで安く使えばいい」「シングルファーザーは正社員で雇い入れない」といった性差別状況を維持、再生産しようとする権力関係に立ち向かうことにはならない。

しかも、性別特性は21世紀の現在、性差別問題の論点たり得ないと思う。この男女で異なる性別特性は、1960年代に制度化されたものであり、現在の経済・社会状況とは相容れないのだ。性別特性は、1960年代に家庭科の男女別学や男女特性を活かした教育の制度化によって進められた政策という面が大きい。前エントリーのコメント欄にも書いたが、1961年に税の配偶者控除制度が導入された。63年には、「人的能力発展のための課題と対策」政策により既婚女性を低賃金パート労働者にとどめる政策がとられた。また、教育面では、1962年に中学校の家庭科で技術・家庭科と男女別のカリキュラムがとられ、翌63年に、高校女子のみに「家庭一般」を教育された。当時は、男性だけで労働人口が足りていたから既婚女性を「家庭」に追い込む政策を導入することができたのである。翻って2008年現在はどうであろうか。「主婦」になりたくてもなれない状況があるのに、どうして60年代高度成長期政策による「性別特性」をことさら強調したがるのか。これは細谷さんだけの問題ではなく、近年「ジェンダーフリー」が議論になってからの女性学者の一部に見られる傾向であるが、疑問である。


なぜ今、性別特性問題を持ち出すことが大きな問題をはらむのか。それは、社会における関係論的な考え方、特に、女性の中での階層や地域、世代、セクシュアリティの問題が置き去りにされることに等しいからだ。1960年代政府によって政策化された性別特性論を21世紀の現在、性差別の大きな障害であるかのように言うのはあまりにも状況を見誤っているか、国の男女共同参画政策に順応しすぎているかのどちらかのように思えてならない。国の政策は単に何もやらないで済まそうという慣性の結果として「性差から個性へ」といった啓発事業をやっているのであろうに、ご丁寧にその何もしない政策をよしとして後押しするような女性学は許し難いものだ。このような時代錯誤な状況を同定するを女性学者の「解説」は、わたしには害毒であるとしか思えない。それが前回、言葉足らずだったが細谷さんへの批判を書いたゆえんである。これでは女性学は80年初めから何も学問的に進んでいないと誤解されんじゃないかと思うくらいだ。あ、ちょっとした補足のつもりが、あれよあれよと長くなってしまった。ああー。