macska ブログを読んで

macska dot orgブログで「「館長雇い止め」を「バックラッシュ裁判」として闘ったことの帰結」という記事が書かれている。わたしはかつて三井さんが議員だった時に、その歯切れのよさに惚れておっかけをしたこともあるし、館長雇い止め裁判支援者の一人でもある。だが、マチュカさんがここで書かれていることについては見過ごせない問題なので、運動にかかわるものとして自省を込めて、思うところを書いてみたい。

第一に、「館長雇い止め」を「バックラッシュ裁判」として闘ったことについてだが、この事件は、地方政府が保守政治家からの横やりにどう対処したのかという点で興味深い要素をはらんでいた。地方都市で男女平等政策や条例の策定に市民として多少かかわった経験から言うと、地方政府は、通常保守の地方政治家とうまく折り合いをつけて政策を進めており、豊中市でも条例を上程するためにどんなことがあったかについて表に出る機会にもなったはずだ。しかし、「バックラッシュ」派=悪と名指され、全国的な運動として行われたという点が強調され、原告をどのようにして「すてっぷ」館長職から排除したかについて掘り下げがなされていないようにみえるのは残念であった。

HPに掲載された一審判決を参照しつつ述べると、「バックラッシュ勢力」については、「男女共同参画社会基本法が制定され、各地で条例が制定され始めたころ、各地で伝統的な性別役割を誇示し、社会的文化的に作り出された男女の特性を強調し、女性の地位向上、男女平等の推進を阻もうとする」ものとあるが(p18-19あたり)、具体的に出てくるのは豊中市議会(当時)の北川悟司議員と同議員が関係する団体のメンバーである女性3名くらいである。これを「バックラッシュ勢力」といっても、従来の保守政治家とどう違うのか、あるいは共通しているのかわからない。特に、北川議員は民主党所属であるらしいが、他の議員との議会での連携がどうだったのか、また北川議員が条例制定に賛成するに至った政治的背景が見えてこないと、条例と三井退任が取引された「密約」であったという事件の核心が見えてこないのだ。「バックラッシュ」という女性運動が感情的に飛びつきやすい言葉を使ったことで、全国から支援者を集めることにはなったが、地方政府と保守政治家のつながりをじっくり掘り下げる好機が失われたのではないかと思う。傍証や前例でもいいからそのような取引例を提示してほしかったというのは言い過ぎだろうか。

第二に、「館長雇止め・バックラッシュ裁判を支援する会」のブログが閉じたコミュニケーションであるというのは同感だ。ブログには「不当判決」という三井氏や弁護団、支持者らの抗議の声が掲載されている一方、それへの批判であるマチュカブログへの反応が鈍いのはやはりさびしい。数少ない反論が、数少ないコメントとしてネット界に上がっているのが、ファイトバックの会を 「意図的に「『閉鎖的』にするほど,『立派な』団体ではファイトバックの会はない」と、ファイトバックの会を勝手に代表した挙げ句に当団体を貶めているのはまことに残念なことだ。また、イダヒロユキ氏のブログ「三井裁判・不当判決!でも内容としては勝利」では、裁判官を「傍聴席の私たちにみられたくないためか、判決理由は読まずに、棄却とだけ言ってそそくさと退廷した」とか、「バックラッシュが怖くて、そのような政治的な判決を書く勇気がなかったのである」と裁判官像を勝手に作りあげてこき下ろしている。イダブログはコメント欄もトラックバックも受け付けない閉じたコミュニケーション方式である。イダ氏の内容は論外だが、閉じたコミュニケーションは、他の集団との切磋琢磨もないから議論が脆弱になる傾向が一般的にあるのは否めない。近年のフェミニズム運動はMLから出ず内輪での閉じたコミュニケーションになりがちだ。しかし、フェミニズムが表に出て意見が言えない社会運動だというのでは、フェミニズムが世の中を切り開いてきた歴史を思い起こすと、あまりに消極的である。マチュカさんはそういう日本の女性運動に一石を投じてくれたと思う。

おそらく、ブログのコメント欄をあけていたら、ネット世代である30−40代でパート、アルバイト、派遣など非常勤や有期雇用などしんどい条件で働く女性たち/男性たちからの声がもっと届き、「バックラッシュ裁判」という方針に影響を与えていたかもしれないと思ったりする。国や地方政府が男女共同参画社会基本法を制定し、それを推進するセンターを各地に作っている今、それがいくら形式的な実践にとどまっているとはいえ、そうした活動をする女性たちが自らを少数派やマイノリティと目し、「バックラッシュ」に対抗するとばかり言っていても広がりをもてないと思う。地方に住んでいて新聞記事やテレビニュースでみる「男女共同参画」は、中高年男女が仲良く料理をしたり、家庭の中で夫婦が仲良く暮らしているという寸劇だったりする。中高年男女が参加するのが男女共同参画センターであり、雇い止めや非正規雇用の問題で苦しむ若い女性・男性の問題で集まれるところといったイメージはそもそもないからだ。それでは、就職できなかったり、一生非常勤雇用を迫られている若い世代にはぜいたくな悩みと映るだけだ。

この点で、「館長」=管理職の雇い止め問題と、女性センターの若いプロパー職員との問題をどうやってつなげるかというかは重要な点だと思う。この点も判決を見る限り、原告の主張は「被告財団の非正規職員は全員女性であり、非正規職員の雇用更新回数の制限は、女性を差別するものであり、「すてっぷ」の設置目的にも違反し、違法である」(p21ページあたり)と簡単に共通した「女性差別」としているように見えかねない。

しかし、これをつなぐ視点も必要だったのではないか。実際は、財政難の中で誕生した男女共同参画センターの多くが、館長をはじめ「専門職」といわれるプロパー職員の多くを非常勤の有期雇用で帳尻をつけている。そのため、センターで働くといっても、そうした非常勤の人たちがいわゆる「専門職」として働く一方、派遣で役所から来ている公務員が「管理・運営」を担うという二重構造になっている。これは単純に女性差別と言って済ませる問題ではない。地方政府の官僚が指定管理者制度を使ってうまく官僚優位の制度を残している。男女共同参画センターは、不公正な働き方をどうやって是正するかを考える場となるべきところのはずだが、実際は官が優位に立って職務や待遇についての不公正を放任し、結果的に助長している。こうした実態は先般国立女性教育会館でのワークショップで痛感させられた。単に女性差別を強調するだけでなく、それを支える構造のところまで論じることが必要だったのではないだろうか。裁判支援者運動のブログでの交流により、幅広い関心につなげることもできたのではないだろうか。

相当迷った挙げ句にこのように批判的な声を上げた。これは、フェミニズムに紛れ込んでフェミニズムを代表したかのような発信をするとんでもない男たちに鉄槌を下ろし(笑)、フェミニズムへの鋭く厳しい批判をも受け入れたいと思ったからだ。