「ジェンダー」は、「学問的・行政的性差・性別」概念?

ジェンダー」は分割の導線である。しかしながら、日本では、実際にどのような分割の導線か、を考えるより、理論上の概念にとどまっているような気がしている。かつて、基本法や条例に「ジェンダー」を入れようという動きがあったが、あれは一体、何だったのだろうか。
6月15日頃から、山口智美さんと「ジェンダー」が実際にどのように使われてきたのかを調べた資料を「ジェンダーフリー概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」サイトに挙げてきた。それを載せた頃から、アクセス数はどっと増え、それまでの2倍にもなっている(最近では、1日のアクセス数が300台後半、400近い)。しかし、これまで他の考察を書いた時に(共感、反発どちらであれ)鋭く帰ってきた反応が今回はちっともこないのだ。不気味なくらいである。これから想像するに、ジェンダーが実際の社会でどのように使われているか、にはあまり関心がないのではないか。
山口さんが「ジェンダー概念と女性学http://homepage.mac.com/tomomiyg/genderws.htmで、女性学では「ジェンダー」概念を説明するのに欧米理論ばかりが登場しているが、「日本でもウーマンリブ運動から続く女性運動は、『ジェンダー』概念に相当する理論を生み出してきたのではないだろうか」と書いている。私も、大学の「ジェンダー」の授業では、必ず、「女性運動とジェンダー概念」というテーマを入れて話すようにしている。理念的に話すと「お勉強」するにとどまるが、運動との関わりで話す方と社会とジェンダーの関わりにより共感したり、反発観じたりする度合いが強いように感じられるからだ。
しかし、日本の女性学で「ジェンダー」とは何かを決めるに影響があったと思われる上野氏の「差異の政治学」論文などにおいて、日本での「ジェンダーの使われ方」についての考察がないことから、日本では「ジェンダー」は理念上のことばであり、実際にどう使われてきたかは重要でないと多くの人に考えられているのではないだろうか。
ところで、アクセス解析によると、私の「ジェンダーとメディア」のサイトに来られる方は、「ジェンダー」「ジェンダーとは」「ジェンダー論」を検索語として来られる方がトップ3である。これは他を圧している。これをみていると、「ジェンダー」は、わからないことばなんだろうなと察しがつく。ドメインが大学のアクセスも多い。これからジェンダーって、「知っていなければならないことば」「学ぶべきことば」でもあるんだろうなと思う。「ジェンダー概念と女性学」で書かれているように、ジェンダーの定義は、「社会的、文化的性差・性別」が一般的である。しかし、実際の社会でどのように使われてきたかを論じられていない「ジェンダー」って「社会的、文化的性差・性別」といえるのだろうか?
ジェンダーが、日本では「学問上」あるいは「行政用語上」のことばにとどまるのだとしたら*1、日本におけるジェンダーの定義を「社会的・文化的性差・性別」とするのは、語義矛盾となるのではなかろうか。正確にいえば、「ジェンダー」は、「学問的・行政的性差・性別」概念というのが本当のところではないだろうか?
次は、「ジェンダー」や「ジェンダーフリー」がどこか他人に向けて語ることばであり、自分自身について問いかけることばではなかったのではないかということについて書きたいと思います。「お勉強のことば」であるということともつながりますが。
【追記】ちょうど1年前の今日http://d.hatena.ne.jp/discour/20040714、「ジェンダー」概念についての疑問を書き始めていた。山口さんがブログを書き始め、私のサイトがYahoo の社会科学>ジェンダー研究に登録されたのも同じ頃だった。それから1年、「ジェンダー」概念再考、「ジェンダーフリー」概念再考といろいろ書いてきたんだなあ。もう少しこの整理は続く。
【追記2】
ここで述べている前提に、「ジェンダー=社会的、文化的性差」が変だということがああります。しかし、上記の文章ではそれが伝わっていないという感想をもらったので補足します。
ジェンダー=社会的、文化的性差」っていうこと自体、男女の権力差を生じせしめている社会制度、慣行などを問題にせず、個人的な特質差や性格の差、好みの差のみを問題にしているように理解されがちである点が極めてまずい定義だと思っています。

*1:「『ジェンダー』概念をめぐる2つの波と行政・女性学・女性運動」http://homepage.mac.com/tomomiyg/gender.htmを参照