猟奇的事件の猟奇的報道ー報道も猟奇的なのではないか

先日の夕刻、スポーツジムでみるともなく夕方6時頃のニュース報道番組を見ていた。ほんと殺人事件などの事件報道ばっかりやっているなあと思った。特に江東区の女性殺人事件は最初からなぞめいていたこともあって、警察情報を逐一教えられる。殺してトイレに流したとかいう詳細な殺害に関する情報は被害者としたら、自ら聞きたくて裁判の過程で知るというのでもない限り、今の段階で報道から耳にするのはほんと人権侵害じゃないかと思える。わたしならそんなこと知りたくないし、またそういうことを家族以外の日本中の人びとに知られると思うと、ほんとつらいだろうなと思う。やりきれない思いがする。

このところ大正時代の富山の地方新聞をみていたのだが、この頃は強姦事件の惨状が被害者の実名入りで出てくる。お盆の寺参りに来た何のなにがし12歳がだれそれに暴力によって草むらで強姦され、処女膜が破裂していまだ医師の治療をしているといった事件の状況が事細かく描写されている。被害者女性の人権はまったくつゆほども考えられていなかったことがわかる。なんとひどい世の中ぞ。しかし、現在のように警察に逮捕後に殺害情報が警察から流され報道されることは少ないような気がした(その点について詳しく調べてはいない)。

現在は、強姦事件ではその状況を子細に描くことは、とりわけ被害者が存命である場合は人権への配慮からしなくなった(死者にはまだ冷酷なように思う)。これは被害者の人権侵害だというフェミニズムによる抗議の成果である。それはよかったのだが、今度は、猟奇的な事件の殺害状況まで事細かに警察からしらされ報道される。しかし、猟奇的なことまで明らかにするのは殺された被害者やその家族の人としての尊厳を冒すことではないのか。わたしはここまで知らせる必要はないと思う。人の尊厳を冒してまで読者・視聴者の「もっと知りたい」欲求を満たしてやることはない。

いつの時代でも、メディアは視聴率とるため、読んでもらうために、センセーショナルな何かを目玉にして引きつけているのだろう。女性のセクシュアリティは常にセンセーショナル報道のターゲットになっているが、扇情的に引きつける要素が何かは時代によって異なっているように思う。

こういう報道は人の倫に外れている(人権侵害だ)と思う人は、「猟奇的報道はいらない」の意思表示をしたい。