今日のKNB金曜ジャーナル・原発特集に、反原発運動の橋たきさんがでていた

 1980年に富山県に戻ってきた。すぐに、当時進行中だった能登原発の構想を知り、能登原発の予定地の一坪株主運動に参加したり、その後北陸電力の株を購入しての意見株主運動にも関わったりしてきた。高岡は能登原発から30キロなので、「風下の会(原発はいらない風下住民の会)」というのにも参加していた。今回の福島原発の震災(人災という意味で「震災」と言いたいです)によって、皮肉なことに、原発から30キロが避難区域であることをまざまざと見せつけられた。志賀原発から30キロの高岡は、そして北西の風が吹くと特に、風下ドンピシャになるエリアであることを多くの人が強く認識したことだろう。

 メディアが電力会社に頭が上がらないことについては、上杉隆さんはじめいろんな人が語っており、また日々、戦時中の大本営報道かと思うような、真実に迫らない報道に接して正直、途方にくれる日々である。

 ところが、今日たまたまみた北日本放送の金曜ジャーナル(数家直樹キャスター)で、80年代反原発運動ではみんなが知っている、志賀町赤住の橋たきさん(86歳)を取材していたのをみた。原発から1キロの場所に住んでいる。当時、富山からも現地に通っている人たちから「橋のばあちゃん」の話はよく耳にしたものだった。とても懐かしい思いを抱いた。また、86歳になられた今もかくしゃくとしてその発言はみじんもぶれておらず、力強かった。

 その橋たきさんが長い間画面に登場していたのにはちょっとびっくりした。反原発の闘士が民間放送の番組にでて原発反対についてこんなに時間をとって語るというのは、これまであっただろうか。一般に、原発について厳しいコメントを発する研究者、運動家は番組にでて声を発することはほんとに少ない。

 しかし、この特集では、橋さんがもっとも多くの声を発していたように思えた。「二重三重に安全というものがこわれたけど、地元住民の意識は変わっていない」「しかし、孫・子に影響を与えるんだから、原発をもういっぺん見直してほしいな」などと語った。また、除草剤を使わない野菜作りをしていること、その野菜が人気だとも言っていた。当初は70人くらい反対している人がいたが、今はもうだれも反対という人はいなくなっているとナレーションで言っていた。ほんとに気骨がある橋さんが健在だったのはうれしく思うと同時に、原発立地に住み続けることはさぞかしきつかっただろうとも想像した。

 福島第一原発事故の波紋(1) 
 福島第一原発事故の波紋(2)

 さらに、福島瑞穂社民党党首が高岡市内で県議選の応援に来て、脱原発に向けた国の政策の転換を訴えたことを放映した。これまで脱原発を掲げてやってきたが、力が足りず政策転換ができなかったために、今回の事故が起きて、慚愧に堪えません、といった趣旨の演説をしているところを長く放映していた。

 いやはや、久しぶりに、多くの市民が感じている脱原発の方向を示唆する報道に接することができて、なんかほっとする感じがした。また、橋のばあちゃんも健在でほんとに懐かしかった。そして改めて、脱原発は進めていかなければならないと強く思った。

 次回は、1988年頃にピークになっていた「まだ間に合うのなら」という子どもをもつ女性たちが中心になって進めた反原発の運動やその頃の私たち富山の女性たちが取り組んでいた反原発の運動について書こうかと思う。