奥野達夫さんのこと

 少し日がたったが、奥野達夫さんが亡くなられたということをテレビのニュースで知って、びっくりした。

 奥野さんは、南砺市立福光美術館の館長であり、もろもろ社会に貢献されてきた方だ。南砺市のお生まれで、私が生まれたところのほんの対岸の地のご出身だとご本人から聞いて、どこか近しさを感じるところがあった。


 拙ブログの福光と棟方志功でも書いた愛染苑は、福光美術館の分館であるが、福光美術館であれ、愛染苑であれ、土地に根付いた、格好つけない風情が愛すべきものと映っていた。


 『万華鏡』という写真で綴るユニークな雑誌が富山にあるが、その発行にも関わっておられた。その「古志の人の書斎」(105号、2000年)という特集の際に、「聞き書き万華鏡」というコーナーで私の書斎(書斎というのもおこがましい風情のものだが、、)について、本田恭子さんが取材して聞き書きをしてくださったことがあった。ご縁のない雑誌からの取材に不思議に思ったが、それも当時、ほとんど面識のなかった奥野さんのご紹介だったと聞いた。


 近年は、魚津の米蔵の会を支える活動もなさっておられた。米騒動について考えはじめた初期に書いたブログ記事に、奥野さんと思われる方がコメント欄に書き込みをしてくださっただろうことも忘れがたい思い出である。


 こう見てくると、奥野さんは、富山の文化的な活動を、根っこの部分で地味にも支えて来られた方だと思う。奥野さんとは、考えが異なることはあったが、恐らく思いの強さから来ることであり、いつかゆっくりと語る機会が来れば、おもしろい話ができそうという気もしていた。

 だから、なくなられたというニュースに触れ、もうそういう機会は来ないのか、とちょっとがっくりした。言葉でお伝えする機会を逸してしまったことを残念に思うとともに、冥福をお祈りしたい。

「ありがとう」か、「ごめんなさい」かの違いーー日独の戦争への反省の仕方

元北陸大学教授・田村光彰さんの「戦争の犠牲者とは誰か」(『北陸中日新聞』2015年3月6日)は、ドイツのワイゼッカー元大統領を悼む寄稿である。


田村さんは、国家が靖国神社において英霊に「ありがとう」と感謝をする日本と、「犠牲者とは誰か」を心に刻むように語り、犠牲者に「ごめんなさい」と謝罪するドイツとを対比させ、そうした行為の意味するところを私たちに問いかけている。



英霊に「ありがとう」と感謝する行為は、いいことに対して行うのであるから、繰り返される恐れがある、というのだ。「戦没者を褒めることやありがとうは次の戦死者を想定し、『後に続け』につながる危険性」があるという宗教学者の菱木政晴氏のことばを紹介している。



そして、「国家は、英霊として「ありがとう」と感謝するのではなく、まずもってドイツのように、「ごめんなさい」と謝罪するべきである。謝罪は悪いことに対して行うので、繰り返さない決意となる」という。



田村さんの寄稿記事により、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも目をふさぐ」というワイゼッカー演説の意味を改めて納得した次第である。

アンドルー王子報道のsex slave を「性的関係」と訳した日本のメディアの人権意識


この記事を読んで、今回のアンドルー王子の売春騒動に関するニュースの英語版と日本語報道のギャップに感じてきた違和感の原因がわかった。そして、同時に、日本軍「慰安婦」問題に対する、国際社会の反応と日本国内の反応のギャップもさもありなんと納得できた。



図らずも、アンドルー王子の事件が日本で報道されたことで、sex slaveが問題の核心とされてきた日本軍「慰安婦」問題が日本国内ではアンドルー王子事件の被害者のケース同様に、理解されていないだろうこともなんだか納得できる気がした。


上記記事が引用しているように、海外の報道では、”sex slave”という表現が多く使われていた。インディペンダント、テレグラフニューヨークタイムズしかり。


しかしながら、日本の報道では、なぜか「性奴隷」という表現は目にしなかった。私はそれにずっと違和感を感じていた。どうしてだろうと。

日本では強制売春そのものには全く注意が払われず、ただ売春強要された女性が未成年であったということだけが論点になっているわけです。「淫行」や「少女と性的関係」というタイトルはそれを良く物語っています。

「だれかの妄想はてな版」が書かれているように、日本ではこの女性が「強制売春」の被害者であったことが抜け落ちているか、軽く扱われているのだ。単に、少女と「性的な関係」をもったことがアンドルー王子の過失であったかのように。


だが、それは違う。少女の意志に反して少女を継続的に拘束し、売春行為を強要したから、それを性奴隷状態だとして、”sex slave”という表現が用いられたのである。


ちなみに、「性奴隷制」とは、「性の自己決定権のない状態に人を置き、その人に他の人の性の相手を強制する制度のことです。自由を奪われ、モノとして扱われ、無権利状態に置かれていることが指標となります」(吉見義明ほか編『「慰安婦」・強制・性奴隷』70−71ページ)。


日本軍の「慰安婦」制度でいうなら、「軍隊が女性を継続的に拘束し、軍人がそうと意識しないで輪姦するという、女性に対する暴力の組織化」(吉見義明『従軍慰安婦』231ページ)していたことをもって、sex slave 性奴隷という表現が用いられたわけである。


今回の事件でも、少女が意に反して性行為を強要された、しかも継続的に強要されていたという状態であるからのsex slave表現であったのだろう。どのメディアもそれを使っていることから、そうした認識が共有されていることがわかる。


しかし、今回日本の多くのメディアが、未成年の「淫行」と表記したことから、「意に反した性行為の強要」を「女性への重大な人権侵害」とは認めていないことが、はからずも推測できる。これは、従軍「慰安婦」問題におけるもっとも本質的な部分を理解できていないということにもつながる。「女性の人権」に関する国際社会と日本のとらえ方の溝は深いなあと暗澹たる気持ちになった。


国連で「性奴隷制」という概念が公式用語として使われるようになったのは、1993年6月のウィーン世界人権会議に遡る。ウィーン宣言では以下の文言が入り、女性に対する暴力に関する宣言を採択することを望み、各国に宣言に沿って女性に対する暴力と闘うように強く求めた。今から20年以上も前のことだ。


>>武力紛争の状況における女性の人権侵害は、国際的人権の基本原則および人道法の侵害である。特に殺人、組織的強かん、性奴隷制、強制妊娠を含むこの種のあらゆる侵害には、格別に有効な対応が必要である。


解決が迫られる「慰安婦」問題は、よく言われるような韓国との間だけの外交問題にとどまるものでは全くない。国際社会は、「女性の人権」問題として注目しているのである。日本国内での、女性の人権に対する認識を改めることから始めていく必要がある。アンドルー王子の一件がそのことを強く教えてくれている。

朝日新聞の第三者委員会報告から欠落している「女性の人権」

 一度ツイートしたことを羅列したにすぎませんが、朝日の第三者委員会報告をぱらぱら見ていて思ったことを書き留めておきます(リンクだけつけました)。


 10月9日に「「「朝日新聞の慰安婦報道について検証する第三者委員会」についての研究者・弁護士の要望書 」(呼びかけ人・林博史氏ら)が出された。それは、軍の管理下で女性たちが深刻な人権侵害を受けたことが問題であるという考えに立っていた。


そして以下のことを第三者委員会に要望した。第一に、この問題の専門家がいないこと、第二に、国際人権に関わってきた法律家や人権NGOの方々が入ってないこと、第三に女性が委員の中で1人しかいないこと、等を改善するようにというものだった。


この度発表された朝日新聞の第三者委員会報告では、「女性の人権問題」として論じられていないと、唯一の女性委員である林香里氏が述べている。今回の報告にある参考資料リストにもヒアリングリストをみても、国内の女性専門家・関係者およびその書物は入っていない(アジア女性基金関係除く)。



また、林委員も述べているが、委員会に「女性の人権問題」として「慰安婦」問題を研究している研究者がまったく入ってない。参考資料リストを見ても、女性の人権問題という視点が入ってないことが歴然としている。



ヒアリングにも、参考資料リストにも、国内の女性研究者や運動家が取り上げられないのは、偏っている。さらに、アジア女性基金に関しての資料・文献は同基金推進側のものに一方的に偏っており、それを批判している被害者支援団体や研究者のものは入っていない。偏った報告だと言わざるを得ない。



同報告では、「女性の尊厳や人権という立場に過剰に寄り添うことによって、現実的な解決策を遠ざけている印象は拭えない」(岡本・北岡委員)とまとめている。これは「女性の人権問題」だと、問題解決しないと言っているかのようだ。



現実的な解決とは、被害にあった女性たちの尊厳や人権が回復するということなのではないか。この報告書を読む限り、第三者委員会は、単なる外交問題とか国益とかいった抽象的な次元でのみとらえられている感が拭えなかった。これは当事者を置き去りにした議論であり、むしろ解決は遠のくと思う。



岡本・北岡委員は、朝日新聞が「女性国際戦犯法廷」に肩入れしていると批判する一方、「アジア女性基金」については、「責任回避の方策」と批判的にみているとして非難する。女性たちが被害者に寄り添い行った女性戦犯法廷をけなし、アジア女性基金を肯定する路線は、まさしく「女性の人権」否定だ。



結局のところ、私も賛同人に名を連ねた「朝日新聞慰安婦報道について検証する第三者委員会」についての研究者・弁護士の要望書」(林博史氏ら呼びかけ人、10月9日)の要望は一顧だにされなかったに等しいことが判明したのである。黙っていてはいけないと思う。

また報告書を読み直した後に、ちゃんとしたコメントをまとめられたらと思っています。

北陸中日新聞・文化面の寄稿記事とコリアプロジェクト@富山10/18での松浦晴芳さんの講座

 北陸中日新聞【論壇】問われる社会のかたち 排外主義運動北陸でもという寄稿記事が掲載されました。中日新聞のサイトにもあがっており、ちょっとびっくりしました。
 
 8月23日にコリアプロジェクト@富山で話した「ヘイトスピーチと排外主義運動」という報告をまとめたものです。北陸版掲載ということで、北陸における運動の状況についても付け加えています。

 コリアプロジェクトでは、10月18日(土曜)13:30より松浦晴芳さん(教科書ネット)による「女の目でみる東学農民革命――日清戦争時の農民のたたかいの跡をたどって」があります。場所は、富山県民共生センターサンフォルテ308号です。こちらもみなさま奮ってご参加ください。
 

 
 その後の予定もこちらにあります。

 ちなみに、これまでのコリアプロジェクトの活動もリンクしておきます。この活動は、2010年に日韓併合から100年を期に、富山に生きる私たちを軸に、過去に隣国韓国とどのような関係を持ち、未来をどう拓こうとしているのか、見・聞き・知り、考え、行動するコリアプロジェクトとして生まれました。


 第一期活動(2010年)に始まり、第二期活動(2011年)第三期活動(2012年)第四期活動(2013年)と経て、今年は、第五期です。今期については、facebookでの発信となっっています。



 


 

佐藤卓己氏から落ちている、政治権力の報道介入という視点

 朝日新聞叩きに際し、安倍首相をはじめとする政治権力が「慰安婦問題の誤報によって多くの人が苦しみ、国際社会で日本の名誉が傷つけられたことは事実」とし、「“安倍政権打倒が朝日新聞の社是だ”と名指しで批判」などと朝日新聞を名指しで批判したり、その報道に注文をつけている。一方、こうしたメディアへの政治権力の介入の事態については、一部ジャーナリストを除いて、多くの新聞社やテレビ局からは、問題点の指摘や、真っ正面からの言及などが、ほとんど見られないように思う。私が知らないだけならいいのだが、研究者からの問題提起も少ないように思えてならない。


 朝日新聞をめぐる状況を見ていると、悲しいかな、1918(大正7)年米騒動時に「大阪朝日新聞」に対して起きた白虹事件を思いおこさざるを得ない。白虹事件は、朝日新聞が政治権力に屈服してしまい、それ以来、朝日新聞をはじめとする新聞が「その存立をかけて権力と闘うことの困難」(佐藤卓己)を生じさせたエポックメイキングな筆禍事件である。


 白虹事件とは、1918年8月25日『大阪朝日新聞』が米騒動の記事を差し止めた政府を弾劾する、言論擁護内閣弾劾関西新聞社通信社大会について報じる際に、「白虹日を貫けり」という字句があることを理由に、寺内正毅内閣が『大阪朝日』を新聞紙法違反で告訴した事件である。

近代日本ジャーナリズムの構造―大阪朝日新聞白虹事件前後

近代日本ジャーナリズムの構造―大阪朝日新聞白虹事件前後


というのも、当時の『大阪朝日』は、度々の発売禁止処分にもかかわらず、政府の言論弾圧を罵倒し、厳しく政府を追及していた急先鋒でった。(安倍首相が現在の朝日新聞を「安倍政権打倒が社是」とみなすのと同様に、当時の政権からすれば、『大阪朝日』は最も激しい政府批判をする存在だった)。そこで政治権力は、朝日新聞を発行禁止にまで持ち込もうと画策した。現在も「朝日を潰せ」「朝日を廃刊に」のかけ声が聞かれるのだが、、。
 

 米騒動を契機とした白虹事件により、『大阪朝日』は密かに権力と取引し、「不偏不党」を隠れ蓑として、政治との癒着を抱えて資本主義的企業への道を邁進することを選んだ。ゆえに、白虹事件とメディアについては、有山輝雄は「白虹事件は、日本のジャーナリズムにとって最大の転換点であり、現在のジャーナリズムをも根幹のところから緊縛していると言える」(有山輝雄『近代日本ジャーナリズムの構造―大阪朝日新聞白虹事件前後 』東京出版] 9頁)と、「不偏不党」といういわゆる現代ジャーナリズムの基本が、実は、政権との癒着によって成立したものであることを明らかにしている。


 この事件について「言論の自由」という点から見ると、大きな課題がある。

 朝日新聞自体も、政府の弾圧について紙面で報じることは一切なく、他の新聞社も、政府の言論弾圧を、単に、有力新聞社と政府との関係として処理するにとどまり、普遍的な「言論の自由」の問題としてとらえ、国民全体の問題として提起していくところはまったくなかった。みな沈黙したのであった(詳しくは、上述の有山輝雄本、176-305頁を参照)。

 もちろん、現在と当時は異なる。当時の新聞は讒謗律(讒毀・誹謗に対する罰則)と新聞紙法による統制下にあった。政府から「安寧秩序を紊」すと判断されると、発売禁止や、発行禁・停止命令を受けることも少なくなかった。それでも、多くの新聞は政府批判を行っていたのだ。だが、最も勢いがあり、政府批判が激しかった『大阪朝日』すら政治権力に屈服してしまうと、白虹事件以後は、どの新聞も時の政治権力と闘えなくなってしまった。その後、1925年の治安維持法をはじめと戦争への道を雪崩打って進んでいくことは、ご存じの通りである。



 閑話休題、朝日の事件が起きて以来、白虹事件を取りあげるの右派であり、そのため、政府の弾圧に関する部分が抜け落ちていることが多い。右派が都合よく切り取っているのは、まあそうだろうなあと思うところであるが、最近気になるのは、メディアや社会学などの研究者が右派に甘言を弄しているかのような文章を書いているのを見ることがあり、目を疑っている。

 たとえば、メディア史研究者であり、白虹事件などメディアへの政治弾圧の歴史を誰よりもよく知っているはずの佐藤卓己京都大学教授(メディア史)が、9月26日「東京/中日新聞」の「論壇時評」にて、「朝日の誤報問題」という題でこの問題を取りあげているのを見て、驚いた。

 そこでは、『正論』や『WiLL』『Voice』などでが「朝日新聞炎上」や「朝日『従軍慰安婦』大誤報」などと朝日新聞批判で足並みを揃えていることをもって、「逆に朝日新聞の論壇における影響力を証明している」などとこの問題をどの視点から見ているのだろうかと言いたくなるような呆れたスタンスで評論している。そこでの佐藤氏のの結論も奮っており、「客観報道」の理念でキャンペーンを展開する戦後ジャーナリズム総体を問題視し、こうした「戦後報道の構図を変えよ」と述べているのだ。


 だが、メディアが「客観報道」に老い込められたのが1918年朝日新聞への政府の白虹事件を口実とした報道弾圧であったことにはまったく触れることはない。佐藤氏はかつてはこのように書いていた。著作を引用しよう。なお、同書は、私が持っている2008年刊行分で8刷とあるくらい、現代史のテキストとしてよく読まれているようである。「歴史とは事実の記述である以上に、その解釈である」(酈頁)とも記されている。

(「白虹事件」後に)「『大阪朝日』は編集幹部に引責辞任させ、12月1日「近年巳に不偏不党の宗旨を忘れて偏頗の傾向を生ぜし」の反省社告を掲載した。ここに報道の「不偏不党」が編集綱領として明文化される。(中略)

一連の出来事は、巨大新聞企業がその存立をかけて権力と闘うことの困難を、また「大正デモクラシー」の表層性をも物語っている」(佐藤卓己

現代メディア史 (岩波テキストブックス)

現代メディア史 (岩波テキストブックス)

岩波書店、1998年、90-91頁)


 佐藤氏は、「客観報道」というスローガンが、政府のメディア弾圧により妥協的に作られたものであることを自著で明記している。「客観報道」や「不偏不党」へとメディアが追い込まれたのは、時の政府のメディア弾圧によるものであることを佐藤氏はよく知っている。しかし知っているのに論じない。そうした背景を重々承知の上で、そうしたメディア弾圧の再来にも見える朝日新聞への介入事件を取りあげ、朝日新聞の影響力の大きさを示している、などと空とぼけた評価をしているのは、どうしたことだろうか。
 

 さらに、佐藤氏は、9月28日「産経新聞」にも登場し、「「誤報欄」常設のすすめ」を書く。新聞が生き残るために「「誤報欄」常設が有効だ。自社記事はもちろん他紙も含めて厳しく検証し、速やかに修正を加えていくことは、必要な保守サービスである。」などと述べている。

メディアへの政治弾圧の歴史に詳しい学者が朝日新聞叩きの急先鋒である産経新聞に書くのは、「誤報欄」の設置の必要性という、そんなちっぽけなことでいいのであろうか。大いに疑問である。


 現代史の研究者である佐藤氏には、現在起きている事象を歴史家の視点から解釈していただきたいと切に願う。

慰安婦問題、ピンチをチャンスに変えよう!

 朝日新聞が8月5日「慰安婦問題を考える」特集で、過去の吉田清治証言に基づく記事を取消して以降のメディアの朝日新聞叩きは異常である。産経新聞は、ずっと慰安婦問題で論陣を張ってきているからまあそうだろうと思うが、これまで慰安婦問題にそう熱心でなかった新聞や週刊誌、月刊誌などあらゆるメディアが総出で朝日新聞の記事取消騒動に乗じて、朝日新聞が記事を取り消したゆえに、「慰安婦問題は捏造」だったという言説をまき散らしている。これについての反論は、wam女たちの戦争と平和資料館事務局長の渡辺美奈さんによる
「論点1:朝日新聞が世界の世論をつくったか?」を参照ください。
 しかも、それに乗じて安倍首相が朝日新聞の報道によって日本軍の兵士が「人さらい」のような強制動員を行ったかのように誤解されており、国際的に「日本の名誉」を傷つけたという言いがかりをつけ、朝日新聞に注意を促すという政治家にあるまじき言論介入を行っている。


 言いがかりだという理由は、「2007年3月の安倍総理大臣の「狭義の強制はなかった」発言」が現在の国際的な非難の原因となった、という渡辺美奈さんのwamblog - アクティブミュージアム 女たちの戦争と平和資料館 -「論点3:では現在の国際的な非難の原因を作ったのはだれか?」を読んで頂くのがわかりやすいと思うのでリンクしておきます。2007年の安倍総理の「狭義の強制連行」否定発言により、意に反して慰安婦にされていたという事実さえも日本では否定されていることが当時の安倍総理の発言で世界に知れ渡り、それは今考えるべき女性の人権問題であることが世界に知れ渡ったと渡辺さんは指摘している。非常に明快な事実である。しかし、この事実もメディアの大合唱の前にはかき消されそうなくらいな小さな声に思われる。ちなみに、渡辺さんの主張を動画で見たい方はこちらにあります。


 安倍首相の朝日への忠告に加え、自民党からは、国会に朝日新聞を召還せよという意見も出ている。だが、こうしたメディアへの政治介入的言説に関して、野党政治家からも他のメディア媒体からも危機感を煽る声はあまり聞こえてこないように思われる。その点でも、朝日新聞問題は、非常に深刻なメディア界隈の状況を浮き彫りにしていると思う。この点は、また別途書いていきたいと思っている。


 朝日新聞慰安婦報道やそれへの集中豪雨的批判は、拙ブログのテーマである「ジェンダー」と「メディア」の双方に関わるテーマである。「慰安婦」問題がテーマとなっている今こそ、フェミニズムが反撃する好機でもあると思うが、いまいちフェミニズム界隈での反撃が、従来「慰安婦」問題に取り組んできた一部の人たち以外に広がっていないように思えて、とても残念な気がする。そういう状況を見ると、慰安婦問題にそう詳しくないからと躊躇しているのはまずいんじゃないかと思い始めてきた。


 これから少しずつ、気になったことなどメモでも書き留めていきたい。そして、説得力のある主張については、少しでも拡散していこうと思う。危機感を共有し、対抗言論を拡散していくことが何よりも大事だと思うからだ。ピンチこそ、反撃のチャンスとしたい。