ジェンダーとセクシュアリティの関わり:レズビアンの場合

5月9日エントリーのコメント欄が当日のエントリーとは離れて盛況になりました。ここで改めて、ジェンダーセクシュアリティ、ならびにセクシュアル・マイノリティとの関わり、あるいはそれぞれの意味について、改めて議論する場としたいと思います。


ジェンダーフリー」や「ジェンダー」が日本語にない「性」にかかわることばであり、一方、日本語の「性」ということばは、「ジェンダー」「セックス」「セクシュアリティ」すべてを含む射程をもつことばです。そのため、「ジェンダー」「セクシュアリティ」ということばを使う人がそれぞれの意味で理解しており、同じことばを使っていても意味がことなり通じないということがあるように思います。


ここでは、セクシュアル・マイノリティ、特にレズビアンの場合、「ジェンダー」がどのように関わるかについての議論だと思います。


発端は、yamtomさんの以下のコメントです。

『私はジェンダフリー概念自体に問題山積みだと思うんですよね。様々な混乱を誘う解釈があるって面からも(例えば、おそらくHAKASEさんの解釈と、私の解釈が違うように)、概念自体に積極的に差別を是正するという方向につながらない面があるところと。「ジェンダーの押しつけをやめよう」とかだと、別によさそうではあるが、行政の具体的政策にどうつながるのか?と謎ですし、discourさんが言われているように、ジェンダーをフリーにして、ジェンダーを解消したり、それから解放されたりってことになると、例えば「レズビアニズム」なんて存在しえなくなるんじゃないかという、、。「女」にこだわらないレズビアンってありうるんだろうか。


多様なジェンダーのあり方、セクシュアリティのあり方を認め、「人のジェンダーがどうであろうが、どんなジェンダーの人を愛そうが、それに基づいて差別はしない」って方向でいいと思うのだけど、それは「ジェンダーからフリーになること」ってのとは違うと思います。』

それに対して、atさんは次のように書かれました。

at「discourさんが書かれた「 レズビアン性的指向を女に向けるということの中には、自分が女であること(ジェンダー)って関わっているんではないかな。」という点がどうしても腑に落ちないんですよね。」


ジェンダーでなくセックスなら理解ができるんですが。同性愛者の場合、生物学的性(sex)、社会や文化に寄って規定されるgender、心の性、性的指向(sexuality)との間の矛盾で、異性愛者は経験しない葛藤を強いられると思うんですよね。


自分が「女」というジェンダーを持っていることにこだわればこだわるほど、自己矛盾や葛藤がおこり苦しいと思うんですよ。だから自分が女であるというこだわりじゃなくて、「女が女を愛する」というところのこだわりをもつレズビアンの方が多いように思うんですが、どうでしょう?


運動家の場合は、活動の理論的裏づけが必要と思いますので、こだわりもまた違うと思いますけど。セクシャルマイノリティ当事者のご意見も聞けたらありがたいですが…」


それに対して、わたしは以下のように書きました。

# discour 『私には、「自分が女であるというこだわりじゃなくて、「女が女を愛する」というところのこだわりをもつレズビアンの方が多い」というところがよくわかりませんでした。「自分が女である」ということと「女が女を愛する」の「女」の意味が違うのでしょうか?』


その後、発端のyamtomさんのかき込みが続きます。

# yamtom 『私もdiscourさんと同じで、「女が女を愛する」という「女」の意味が違うのかな?という点がよくわかりませんでした。』

以上です。yamtomさん、atさん、これで続けられるでしょうか。