情報には魔力があるー小池百合子防衛大臣ネタ

小池百合子防衛大臣守屋武昌防衛事務次官更迭が大きく報道されている。「泥仕合の様相」などというやたら「対立」や「ごたごた」を強調する報道をみていて、小泉政権下に田中真紀子外務大臣が外務事務次官の更迭をした時の後味の悪さが蘇った。報道がだれの意見を拾ってくるかによってことの様相や判断がまったく分かれることになるからだ。わたしは小池大臣や田中元大臣を支持しているクチではないのだが、報道が得てして官僚よりになるのが常なのでひっかかるのだ。
 実際、みていると事務次官サイドを利する報道が目につく。今朝みた「みのもんたの朝ズバッ!」では、守屋防衛事務次官と働いたことのある中谷元防衛大臣が出演して、小池大臣のやり方を批判していた。、小池防衛相は真紀子氏そっくり…宗男氏バッサリという記事もそうだ。

当時を知る宗男氏は「常識外という点では、極めて似ているケース」とし、「経験や能力があって組織を知っていれば、自分の判断でいい。だが、小池氏は防衛省を知らない。省内も『大丈夫か』と思っている。その点も真紀子氏と似ている」と指摘。今後の解決法については「事務次官だけ代えるのはアンフェア。大臣も新しくすべきだ」と話した。

「小池氏は防衛省を知らない。省内も『大丈夫か』と思っている。その点も真紀子氏と似ている」というが、人気取りや論功行賞のために大臣職を割り振っている小泉、安倍政権下では、大臣になった当該省庁のことをよく知らない大臣は大勢いるだろうに・・・。なにも小池氏や田中氏だけが抜きんでて「省のことを知らない」とは思えない。他の大臣だって大半が事務方のいいなりになっているはずだが、どうして小池氏と田中氏だけが横紙破りをしているように言われるのだろうか。
 こういう疑問を持っていたら、こうした報道について書いた記事があった。官僚天国ニッポン、事務次官はクビに出来ないのかは次のように指摘する。

報道によると守屋氏は「聞いていない」と怒り、官邸の安部首相を訪ねたとか。テレビや新聞社は、相変わらず「政局」として伝えていますが、官僚の増長ぶり、省庁のガバナンスの問題として捉えるべきではないのでしょうか。」という視点がマスコミ報道に出てこないのは一方的すぎると思う。
官僚がなんでも悪いとは思いませんが、以下の視点も重要であるにもかかわらずメディア報道からはあまりみえてきません。
国民に選ばれたわけでもない事務次官が大臣の判断に公然と反旗を翻し、首相の貴重な時間(まあ、安倍氏なので貴重かどうか分からないという議論はさておき)を自身の進退について割くというのは官僚の分を超えています。政党がシンクタンク機能を持たず、政策立案を霞ヶ関に丸投げしている政治の問題、官僚の流動性がないこと(民間企業のように、次の事務次官がダメなら守屋氏を呼び戻すというのもアリにすればいいと思う)、も議論しなければなりませんが、その前にあくまで官僚は公務員であり、国民に選ばれた大臣を支えるのが仕事のはずです。

 本来このように大臣を支える立場にある事務次官が公然と大臣に反旗を翻した際のバトルをあたかも同列の人物の対立であるかのように報道しているマスコミはやはりヘンだ。しかも、「対立」をおもしろおかしく報道している。こうした例が田中真紀子大臣と小池百合子大臣という女性の大臣であるのは偶然なのだろうか。自分の言い分を通すために、男の新人大臣は官僚組織をうまく使うことを考え、女の新人大臣は組織のトップをすげ替える方法をとる、という方程式があるわけでもないだろう。
 小池、田中両氏以外にもこうした例があっても報道がこれだけ大きく扱わなかっただけかもしれない。この点はちゃんと調べていないのでよくわからないが、、。いずれにしろ、更迭問題が起きた場所が外務省と防衛省という外交や国防という「権力」にまつわる場所であること、そこに初めて女性のトップが任じられた際に起きたことだけは確かだ。ここにどういった複雑な問題が絡んでいるのだろうか。興味深い。

 女性の大臣だから大きく取りあげられたかどうかはなんとも言えないが、メディアが官僚側の見方を前提に記事を書いているという問題は深刻だ。先に挙げたブログの書き手は元新聞記者ということだから、各省庁の官僚トップと日頃情報交換している記者が、新任の大臣より官僚側につく習性があることを熟知しているのだろう。
 テレビ局や新聞社の報道が官僚に擦り寄っている実態については、元共同通信社記者の魚住昭氏の『官僚とメディア』(角川書店)が詳しい。これを読んでショックを受けない人はいないだろうと思うほど癒着は深刻だ。官僚とメディアとのずぶずぶの関係については、魚住氏はご自身の記者時代を振り返って書いている。さらに、耐震偽装事件や、ライブドア村上ファンド事件について取材を元にずぶずぶ関係を明らかにしている。そこには、報道をみているだけではわからない面が書かれている。実はあの事件が一体何であったのか。国土交通省検察庁が何をしたのかについて知りたい人は『官僚とメディア』を読むといい。

 魚住氏は、官僚とメディアの癒着には日本のマスコミに共通する3つの要因があると書いているが、まったく同感だ。その一つは「客観報道主義」であり、2つ目は「ニュースバリュー」、3つ目が「記者クラブ制度」である。
 客観報道主義とは「交通事故や窃盗事件から誘拐殺人のような大事件にいたるまでそれぞれに応じて決められ」ている書き方のことである。何月何日何が起きた・・というその書き方は事件事故のそれぞれの種類別に決められている。記者はそれをたたき込まされ、オンザジョブ・トレーニングで必死に身に付ける。では、それがなぜ官僚よりになるか。

すべてのスタイルに共通する点が一つだけある。それは徹底して記者の主観を排除し、事件事故を主管する官庁が集めたデータや、その官庁の見方に依拠するという姿勢である。

 
 記事を書くスタンスが官僚サイド情報をひたすら信用するというスタンスだといえば、それは「客観報道」とはいえない。こんなネーミングを実態にそぐわない詐称というのではないのか。

 さらに、それに追い打ちをかけるのがマスコミ業界にだけ流通するニュース・バリューであるという。どのニュースが大きく扱われ、どれがベタ記事になるかを決める価値基準だ。今回の小池大臣のニュースがどうしてこれほど大きくおもしろ半分に報道されるのか。これはマスコミ業界の基準によるものなのだろう。そしてそれが私の基準とずれているから違和感を感じるのだろう。

 最後の記者クラブ制度は、日本独特であり問題の多い制度である。日本のメディアで報道される情報が各種官庁(いわゆる行政)発のものに偏重しているのはこの制度のせいだ。魚住氏、曰く。

新聞やテレビが流す情報の7,8割(私の実感に基づく推測値)は各種の官庁から供給されている。記者たちの多くが官庁のなかに設けられた閉鎖的な記者クラブに所属し、そこで役人のレクを受けたり役人宅に夜討ち朝駆けをかけたりして情報をとる。記者たちに要求されるのは官庁情報をいち早く簡潔に、しかも正確に記事化することだ。それができる記者は優秀とされ、そうでない者には「ダメ記者」の烙印が押される。
そんな作業を長年続けていると、知らず知らずの間に官庁となれ合い、官僚と同じ目線で社会を見下ろすようになる。私自身がそうだったから言うのだが、記者たちはいつのまにか権力との距離感を見失い、最も大事な批判精神をなくしてしまう。

さらに、つぎのくだりが今回のような政治家と官僚のパワーゲームについての報道の核心を衝いていると思う。

情報には魔力がある。それがディープなものであればあるほど情報の出し手と受け手との一体感が強まり、それに伴って受け手の出し手に対する批判的な目は失われていく。もっと有り体にいえば、記者は無意識のうちに自らの情報源に跪いてしまう。マスコミが客観報道主義を標榜する限り、それを防ぐ手だてはほとんどない。

 ディープな情報である更迭というネタをいち早く書いたメディアはどこだったのか。そしてそれはどういう意図があったのだろうか。疑問は次々溢れてくる。

 小池大臣の次官更迭報道に接して、その顛末だけに気を取られていると、耐震偽装事件やライブドア・村上事件のようにメディアに誘導され、ことの本質が何であったかがわからなくなっていくかもしれない。官僚とメディアが癒着する中に報道がある。そうした情報操作の世の中では事の本質は意識して求めないとみえてこない。事件の顛末を中心に報道を追っていくことはあまりにも危ない話しだと思う。マスコミ情報だけに頼らず、インターネット情報も加えてよく考えてみないと・・。一つ一つの報道がだれの立場にたって報道されているかについて、多様な情報源をつきあわせてわたしたちが自分で判断するしかない。メディアを見抜く力はますます必要になっているという思いを強くする。