東京のビル群から帰って思う地方のさびれ感

 用事があって東京に数日滞在した。いつものような土があったり猫がいたりする大学環境ではなく、都心の高層ビル群の間に数日停泊していた。東京の大学は土の香りがするし、野良猫が住み着いており、田舎感があるので高岡に戻ってきてもさびれてるなーと思うことはなかった。しかし、高層ビルの中から急に高岡に帰ってきたら、「ああー高岡ってさびれてるなー」ということをすごーく感じた。


 で、いつもはあまり感じていないのはなぜなのかなと考えた。一番大きいのはさびれていてもあまり不自由感がないからだろうなと思う。食事をするレストランや居酒屋、和食のお店などは90年代以降、どんどん新規出店が増えていっている。高度成長で繁栄していた時期は会社に就職することのほうがうまみがあったからか、新規開店はいまほど多くなかった。しかし、最近はほんとに若い人の新規出店が多い。地方でも食のレベルが上がり、おいしいものがほどほど食べられる環境になったように思う。その点は、繁栄していた頃よりずっと恵まれていると思える。


 それに、買い物だってなじみのお店があって、季節ごとの野菜や魚を新鮮なものが手に入り買い物できる日常は幸せなことだなと思っている。それだけじゃなくてネットショッピングなどが発達している今、都会の人が思うほど不自由していない。

 もちろん、雇用や雇用条件は十分ではない。グローバル化の波に洗われ、富山では日本の田舎イメージのままブラジル人、パキスタン人、ロシア人などが多く移り住んで日本人のしない仕事をして働いている。また中国人やフィリピン人が結婚や仕事のためにこの地に住むようになっている。しかし、そこでどんな劣悪な状況が生まれているかは統計や相談事業からは浮き彫りにならない。いわばブラックボックスに近い。この問題が表に出ないために、日々実感しないようになっていることも大きいのではないかと思う。

 また、2世帯、3世帯同居が少なくないので、雇用状況の悪化は内部で吸収され見えにくくなっている。都会でのパラサイトがフリーターなど雇用格差を吸収しているのと似た面があるように思う。また、自殺などは多いようだが、路上で暮らしいている人はあまりみかけない。そんなこんなで、グローバル化による格差問題を都会ほど気にしないで過ごしているからだろう。危機は迫る、けれども日々の生活では目をつぶっていられるというところだろうか。
 
 都会からみると、いなかはグローバル化によって一層さびれていてかわいそうと思うだろう。しかし、グローバル化の様相を日々実感することの少ない地元人にすれば、田舎に住んでいることとは、冬雪をかぶった立山連峰がぐっとせせりだして望める日があること、15分で海岸に出て潮風にあたれること、春になれば知り合いが取ってきたふきのとうやわらび、ぜんまいのおすそわけがあり、豊かな食材を季節季節に安く買えることのように感じられる。これはとても豊かなことだ。グローバル化による格差問題を表面的に封じ込めている、という歓迎せざる限定つきではあるが、外からみてこんなにさびれていても、「さびれ=あわれ」とは感じない生活実感があるように思う。

付記:だからといってグローバル化による地方の格差問題を放置していいということにならないです。誤解のないようにいっときます。