気仙沼の斉藤貞子さんと斉吉商店

 東北・関東の大震災と東京電力原発震災と続きました。最初は起きたことが自分の中で整理がつかず、心がざわつき集中できずにただ右往左往して生活していたような気がします。そして、時間が経つにつれ、わたしがどんな言葉を発しても何も意味がないようなそんな気持ちが続いていました。そして、ブログも止まっていました。
 
 三陸沿岸には何度かお邪魔してその時にいただいたご縁で気仙沼斉吉商店の斉藤貞子さんとはささやかながら交流を続けておりました。貞子さんは、気仙沼の「つばき会」という女性団体の会長さんとして活躍していらっしゃるようです。会の事務局長をされている和枝さんが貞子さんの娘さんで斉吉商店の店長さん。

 斉吉商店には、最初、近くのビジネスホテルに泊まっていた折りに「さんま寿司」ののれんをみかけて立ち寄ったのがきっかけでした。お茶をご馳走になり、そのうち、富山のマグロ、秋刀魚などの遠洋漁業の船の太平洋側での管理をされているとのことで(今なんというのかわからないが、昔の廻船問屋のような仕事)、富山の船主さんの名前をたくさん挙げられた中に知人の名前があり、偶然に驚き、話が弾んだのでした。先代からの長いつきあいだということでした。わたしは、富山の反対側の気仙沼にも、富山の船が行ってお世話になっていることにちょっと驚いたのでした。その時、確か5月の連休だったので、お店の屋根の上には、「鯉と緋鯉」ではなく、「マグロと鰹」の鯉のぼりがはためいていました。貞子さんがお孫さんに作ってあげたと言われていました。気仙沼では、鯉ではなく鮪の鯉のぼりをするんだと聞いた時の青い空を今も覚えています。

 今回、貞子さんご家族はご無事だということを地震発生後数日後にネットを通じて知ることができたのですが、かつて、「気仙沼は自然の良港でねー、台風が来てもなんともないんですよ。」と漁港で船のお世話をしてこられた貞子さんのだんなさまがさんまの水揚げにつれて行ってくださった折りに語ってくださったのを思い出しています。「津波」という言葉は発せられなかったけど、外海の荒れが大島があるせいで気仙沼の漁港までに響かないというふうにおっしゃっておられたのでした。それがあのようにすべて流されるような大津波になって、気仙沼の漁業関係の方々はさぞかしショックを受けておられるだろうなと思います。
 
 それと津波の映像を見て真っ先に思い出したのは、「井波の獅子頭」も流されたんだなあということだった。というのは、貞子さんとだんなさんが富山に来て「井波の(木彫の)獅子頭」をたいそう気に入られて、お世話している漁師さんたちが頭になり、家を新築されたら、床の間に飾るのにと井波の獅子頭を送ることにしているという話をされていたからです。

 斉吉商店さんの商品は、さんまをはじめどれもとびきりおいしいのです。大ファンでした。最近は、東京でも人気らしく、東京駅の駅ナカショップや伊勢丹などでもみかけるようになっていました。この記事を読むと、貞子さんのご実家が佃煮やさんをやっておられたということが大きいんだなと思います。貞子さんには、毎年お手製の鰹の糀付けや三陸のひじきや昆布などを、それこそ実家からの宅配便のように送っていただいていました。「売り物じゃないんだからね」「どれだけもらってくれる?」と東北人らしい、実直そうでやさしさがにじみ出る声で聞かれました。

 地震津波があった夜、冷凍庫から貞子さん特製の鰹の糀付けを出して、ちびりちびりいただきながら、気仙沼と貞子さんに思いを馳せていました。しかし、テレビのニュース映像を見過ぎて、その後ネット情報で、テレビでは映されないもっと厳しい現実についての報告を見るに及んで、気分がふさぐまでになったので、この間ぼそぼそと役にも立たないけれど、思ったり考えたりしてきたことをぼちぼち外へ向けて発信していくことに決めました。

 先週末か、次のようなお知らせが斉吉商店のトップページに載っていました。ご家族だけではなく従業員さんも全員ご無事とは、きっと避難の誘導がよかったのでしょう。ほんとこんな情勢の中ではとびきりよい知らせです。

3月11日の大地震による大津波により店舗及び工場が壊滅的な被害を受け、只今営業困難な状況にあり、皆様には大変なご迷惑をお掛け致しております。申し訳ございません。また、多くの方々から多大な支援を承り、大変感謝しております。誠にありがとうございます。しばらくの間は営業できませんが、従業員は全員無事ですので、必ず再開することをお約束いたします。今しばらくお待ちください。

 あれだけのものを積み上げてこられたのに、全部流されてさぞかし無念だろうに、「申し訳ございません」という言葉を発せられています。わたしたちこそ励ましをいただいているように感じました。
 

 写真は、ホタテの稚貝を木綿の古布と合わせた貞子さんの作品。木綿がだいすきとのこと。使い込んだ木綿を端切れになっても活かしきっておられるなあと思いましたもの。今となれば、富山にあったから気仙沼のホタテと古木綿が残ったことのだ思うので、大事にしていきたいと思います。

 ひとり一人が被災された方達にできる支援をしていくしかないと思います。なんにも役に立たない文章なんですが、これを書かないと、3.11以後へとスタートできないような気がして気仙沼への思いをつぶやきました。

 次回は、80年代前半に能登原発反対運動で北電に出かけたり、「風下の会」というグループに加わっていたりしたことを振り返りつつ、3.11以後を考えることを遅まきながらですが、始めたいと思います。