「ジェンダー=社会的・文化的性差」がまずいわけ
女性が出産、子育てでフルタイムの仕事を一旦中断し、パートで再就職したら、生涯賃金はどれくらい違うのか。内閣府の試算によると、1億8,600万円減ってしまうそうだ。これは、短大卒の試算のようなので、2億以上違う人もいるだろう。これを知ったら、子どもを持つことによって逸する利益と天秤にかけて職にとどまり、子どもを持たない選択をする人が多いのも理解できる。特に、男性も終身雇用制が崩れ、若い世代でフリーターが増大している現在、女性が自ら獲得した正社員の地位を捨てないのは当然の選択だと思える。
正社員とフリーターとの生涯賃金格差の試算もなされているが3億とか2億とか言われると、正社員になった女性が子育てのためにフルタイム職を失うのはやはり納得できない選択だと思う。再度フルタイム職に戻れる可能性は少ないからだ。しかし、子育て支援も十分ではない中、「祖父母力」(樋口恵子)に頼れる場合やベビーシッターにお金をかけられる場合ではないと子育てしながら正社員の仕事を続けるのも難しい。出産は、自由がきく管理職になってから、安定した仕事についてからという女性が増えているというのも納得できるなあ。
7月14日のこのブログで「ジェンダー」が社会に浸透しないまま、学問や行政の用語としてとどまっているのが問題だと書いた。学問や行政が「ジェンダー=社会的・文化的性差」という定義で済ませているとなぜまずいかという点について再度書いてみたい。ジェンダーの問題が「社会的・文化的性差」では、一般に「男らしさ」「女らしさ」のことと理解されてしまう。実際、そのような理解も根強いと思う。トイレや着替えの問題ばかり議論されている。それで困るのは、先に述べたようにどんな働き方、暮らし方を選んでも不利益が生じないように税制や社会保障制度を変えていくという政策に焦点が当たらないことだ。小泉政権で「自己責任」ということばが好まれているように、リベラリズムが極まると社会政策が弱体化していくのではないか。そうした政治情勢の中、ジェンダーが個人の意識や資質のことと誤解されるのはきわめてまずいのではないか。
これまでは、専業主婦は年金を自分で払わなくても年金を給付されるとか、配偶者特別控除などで「女性は働かない方がお得」な制度であった。これからは、どんな暮らし方を選んでも損をしないように社会的制度を変えていかねばますます若い世代が理不尽な選択を迫られるように思う。ジェンダーが性差のことだと思われている限り、女性が社会に参画できないままの状況を変えようとする政策の強化にはつながらないようでもどかしい。
地方自治体の男女平等プランや男女共同参画プランなどをみても、「審議会」レベルの女性割合を30%にする程度でお茶を濁している。決して、政治家や自治体職員の管理職率などという抜本的な数値を設定しようというところはない(その結果、日本女性の所得、専門職、管理職に占める割合などは177カ国中、38位と低いという)。また、雇用機会均等法の改正論議、各地の条例、プランなどの改定論議でも、実質的な政策レベルの議論がちっとも進まない。各地で制定された男女平等、共同参画条例は、若者のライフスタイル選択の状況改善に寄与しただろうか。私自身、プラン、条例の策定に関わってきたから最近の若年就労の問題を見ると、何も力になっていないことに忸怩たる思いがしている。
フェミニズムは、専業主婦を軽視するのではなく、専業主婦を選んでも、共働きを選んでも、途中で一旦下りて子育て専業を選んでも不利益を生じないように多様な生き方を選べるような「ライフスタイルに中立な制度改革」を進めたいのだ。だが、「ジェンダー=社会的性差」にとどまる限り、制度改革という主張が理解されづらいように思う。ジェンダーが性差という個人的な資質、特質と誤解されている限り、政策に関心が向かないという点が困る。ジェンダー政策は、デフレの中で女性のみならず男性にも重要な意味を持っていると思うからである。