朝日新聞「『ジェンダーフリー』言葉巡る論争過熱」記事を読んで

 3月23日『朝日新聞』オピニオン欄ほぼ全面をつかった「ジェンダーフリー 言葉巡る論争過熱 講演中止の事態も」(竹信三恵子・平塚史歩)という記事が載った。男女平等、性差別、女性問題に関心をもつ者として、この問題が世に問われるのは歓迎したい。ただ、当ブログの前のエントリーのコメント欄にみなさん書かれているように、突っ込みどころ満載なので、男女平等政策の議論が盛り上がるようにと願いも込めて少し意見を述べてみたい。
 

 これまでコメント欄で指摘されたのは、「バックラッシュ側の登場人物」が自民党だけで、主役というべき宗教団体が紙面には全然登場しないという点、および「ジェンダーフリー」問題イコール「言葉をめぐる論争」として済ませている点であった。

 本エントリーで書いてみたいのは、後段の「ジェンダーフリー」とは何かということについてです。


■ 「ジェンダーフリー」は、意識啓発という古いワインを入れる新しい皮袋だった
      
 珍問答にみえるかもしれませんが、おつきあい下さい。
 竹信記者らは、yamtomさんが書かれたように、「言葉をめぐる論争」にしてしまっています。最大見出しで「言葉を巡る論争」と書いているし、自民党が「ジェンダーフリー」を使うなといっているのが問題だとしたい意図が透けて見えます。若桑みどり氏のコメント「前代未聞の言葉封じ」もその説を補強しています。


 しかし、「ジェンダーフリー」問題は、ジャーナリストがよく言う「表現の自由」問題だったのでしょうか。


 いや、それは違うと思います。この記事がつまらないのは「ジェンダーフリー」問題が何かを追求することをはなから考えていないことです。最初から、自民党という仮想敵をつくってそれにお荷物を預けていることにあります。本当にこの問題で困っている人の立場にたって探求し、その責任者を追求していない記事です。


 「ジェンダーフリー」問題において、だれがどのような被害を被り、その責任を負うのは誰なのか。それが論じられていません。表面的に、女性学者と一部自民党ら保守層の対立関係として扱っています。


 しかし、この問題で困っている人はだれと思いますか。わたしはこの問題の真の被害者は、税金で役にも立たず反発ばかり招いている「意識啓発」を展開されている国民、市民一般だろうと思うのですが、そのことが見えてきません。


 この問題を広く議論できるオピニオン欄で取り上げるならば、「ジェンダーフリー」をいつ、だれがどのような目的で導入したかということから見ていかないとわかりません。それを放棄していることがもっともまずいところです。


 実は、東京都女性財団が、従来からの「意識啓発」を続けつつ、ちょっと目新しいことをやりましたと見えるように、「ジェンダーフリー」という目新しいことばを利用したことが発端だったのです。「意識啓発」という古いワインを目新しく見せるための「新しい皮袋」、それが誰も知らない和製英語の「ジェンダーフリー」だったのです。導入経緯については、http://homepage.mac.com/tomomiyg/gfree1.htmをご参照ください。


 だから、「ジェンダーフリー」問題で第1の責任は、いい加減な言葉を導入して意識啓発をおこなった行政ならびに結託していい加減な言葉といい加減な意図を黙認してしまった学者にあります。


 そう考える根拠は、3月17日のエントリーで行政との協働事業をされているatさんが書かれている文にあります。行政にとって、「啓発事業」は、ちゃんと仕事をやっていると評価される事業なのです。もし、啓発が失敗しても、やはりまだ市民の意識が低いからと事業の失敗の責任を市民に転嫁できる、どっちに転んでも行政の身が安泰な政策なのです。行政にとってこれほど安心な事業はありません。


 さらに、こうした例は、敗戦直後に盛り上がった女性たちの社会改革の勢いが文部省が出した「民主化」という新しい皮袋にすんなり収められたという前例にも見られます。3月17日のエントリーでも書いています。


 しかし、行政や女性学者にとって無害なはずであった「意識啓発」策こそが、保守派の激しい反発を招いたのです。そこに考えが及ばなかった点で、責任は意識啓発策の導入に関わった行政や女性学者にあるのではないでしょうか。しかも、「意識啓発」に税金を投入して、実際に必要な「構造改革」や「制度改革」に手がつけられていないとしたらどうでしょう。損をしているのは、改革が進まず不当に安い賃金で働いたり、セクハラなどで差別を受けている女性たちです。働かされすぎの男性も被害者と思います。しかし、ジェンダーフリー政策を導入したことの責任論がこの記事や、一連の議論から見落とされているのです。


 「ジェンダーフリー」については、2004年12月の東大ジェンダーコロキアムの時点では、渦中の上野千鶴子氏も「このようなあまり根拠のない和製英語ジェンダーフリーを指す:引用者註)が、このように流通してしまったことについては、私がいただいた様々なご感想の中では、江原由美子さんからのメールで、学者にも責任の一端がある、とおっしゃっています。」という問題発言(?)をされています。


 しかし、2006 年3月のいま現在、このような考えは女性学界隈には見られなくなっています。どこかでそんな意見を聞いたことがありますか? 


 学者にも責任の一端があるという見方は、いつのまに消えてしまったのでしょうか。この発言を確認したい方はここをご覧下さい。
http://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/gencolre1.htm



 この問題についてもっと知りたいという方は、「『ジェンダーフリー』概念から見えてくる女性学・行政・女性運動の関係」サイトhttp://homepage.mac.com/saitohmasami/gender_colloquium/B.htm (山口智美・斉藤正美運営)をご覧下さい。「ジェンダーフリー」がどのように導入され、施策としてどのような問題を持つものかがみえてくるはずです。


 「ジェンダーフリー」は古いワインを入れる新しい皮袋にすぎない、「意識啓発」策はもういらないっていう主張にご理解いただけたでしょうか。