ジェンダーの揺らぎを認めるとはどういうことかー『揺らぐ性・変わる医療』書評(1)

トランスジェンダージェンダーという二元的なジェンダーの制度について取り上げた前エントリーの続編である。ここでは『揺らぐ性・変わる医療ーケアとセクシュアリティを読み直す』に載っている東優子さんの「ジェンダーの揺らぎを扱う医療」を取り上げる。

前にも書いたことだが、「性同一性障害」という名前だけは知っているけど、トランス当事者には実際に出会ったことがないという人も多い。どこで何が起きているのか知らない人の方が多いだろう。東さんの論考は、日本においてトランスジェンダーGID(gender Identity DIsorder)を取り巻く社会的状況がどのように変化したかこの10年に起きたことを詳述しているので、この分野に詳しくない者にとって大変ありがたい文献だ。

1995年埼玉医科大学倫理委員会に対して諮問された「性転換治療の臨床的研究」から日本の「性同一性障害」の歩みは始まった。現在、このような診断を受けた「患者」の数は3,000人を下らないとされる。しかしながら、「医療」の対応を待っている人の多さに対して対応できる医療機関の数が追いつかないという。実際、わたしも富山県内の病院ではどこも対応しているところがなく、困っていると聞いたばかりである。これは前のエントリーで書いたことだが、わたしたちがトランス当事者を他人事とみがちなのは、そうみなすようにし向けている二元的なジェンダー制度によるものなのだ。

東さんの論文に戻ると、東さんは社会的逸脱とされたものが医療化によって社会の枠組みの中に回収されていった過程を追いつつ、その根源的な思想を問う。すなわち、「性同一性障害」という「疾病」として社会に受け入れられていったことの意味を問い直す。そこでは、「性別再判定手術」に関する竹村和子のつぎのようなことば(パトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ』の訳本に付けられた論考から)が引かれている。

まず最初に生殖を特権化して、性器を中心に性的身体を男女に人為的に二分し(つまり人の性的身体を雄化・雌化し)、その二分法の自明視のもとに、それに『適合』しない身体をそのどちらかに『適合』させようとする(竹村2005、p.574)

ボーンスタインと同様に、トランスジェンダーを性に関する「障害」とみなすのではなく、性を二つに、二つだけに分ける制度を問題にする視点が貫かれている。さらに、東さんは医療の現場でそれに対してどのように対処できるかまで考えている。そして次のように述べる。

性の多様性・異質性に不寛容な社会が「門番」に委託しているのは、いわば会員制クラブの入会審査のようなものであるが、性の多様性・異質性はこうした合理的で客観的であろうとするシステムと相容れない。専門家はもとより、本人でさえ予測不能な「失敗」や「公開」は起こりうるものである。その結果を引き受けていかざるをえない当事者をどう支援していくのか、そこに性同一性障害の医療最大の課題があるといえるのではないだろうか。(p.84)

詳しくは直接読んでいただくに限るが、東さんは今の日本におけるトランスジェンダーをめぐる状況を次のようにまとめ、稿を終えている。

人間の性は人生のさまざまなイベントを通じて、セルフ・テストを繰り返して形成されるといった、柔軟で不確かな性質が見出される。そのためにも、自由闊達な、あえて言えば「行き当たりばったり」なジェンダートランジション(移行)を保障していくことが重要であると考える。当事者の主体性を尊重する医療、それを含む広い意味での当事者支援には、「転ばぬ先の杖」をやめ、「失敗する自由」(Diamond & Beh,2006)を見守る覚悟を育てていくことが求められる。「だから言ったじゃないか(I told you so.")」で終わらない「失敗」を想定したフォロー体制を。そろそろ準備する時期に来ているのではないだろうか。(p.85-86)


なお、『揺らぐ性・変わる医療ーケアとセクシュアリティを読み直す』は堅い本のように見えるだろうが、扱っているテーマはすぐれて日常的である。性について、あるいはケアや医療の現場でおきている現象を広く取り上げている。また、機会をみて紹介していきたい。

【追記】書評だとわかりにくいので、見出しに付け加えました。