米騒動の話その2 「女一揆」と呼ぼう

今日は、米騒動話その2です。あわてたのですが、今朝の北日本新聞に「魚津で米騒動フォーラム 女性の連帯誇りに 『女一揆』の意義紹介」という記事が掲載されていました。この記事は、大正七年の富山で起きた米騒動に関しては「女一揆」と呼ぼうと提唱したことを伝えてくれています。それなので急遽、このブログでも昨日紹介しかけたこの話で一番伝えたかったところを書きます。女性の貢献をきちんと評価し、誇りに思い、受け継いでいこうということです。

 この記事では、わたしが「一揆を特定の問題解決、目的達成のために結成された集団」として「富山の女性たちは、米が他県に船で積み出されることに反対し、生活の援助を求めた。女性が連帯して地域の問題解決にあたったことを誇りにしたい。米騒動は女一揆と呼ぼう」と書いてくださっています。「一揆」というのは、「謀反」や「反乱」「暴動」といった不法行為を含意するような印象が強いですが、上記の定義は基本的には『岩波歴史辞典』の定義です。盟約をもった政治共同体というような意味が「一揆」の定義の中核をなしているようです。そのために、ひるまず「一揆」ということばを使っていこうという提案です。「米騒動」では誰が主役かが見えてきませんし、「騒動」というのは悪いことに使われがちなことばでもあります。行為主体を明確にし、その意義を再確認したいということを思います。

そして、記事では「女一揆と呼ぼう」という根拠については、当時の地元紙である『高岡新報』『富山日報』『北陸タイムス』『北陸政報』の1918年7-8月の報道を調べ、七月には「漁民」や「細民」という表現であったのが8月になり「女軍」「女一揆」と報道していたことをあげています。また、「当時の新聞は政府の無策を批判し、不公平な社会に異議申し立てをした貧しい女性たちをバックアップした」というわたしの説明も書いてくださっています。当日、新聞記者の方はおられなかったと思うので、おそらく撮影されていたケーブルテレビの記者さんの記事まとめだろうと思われます。さすが録画されていたから話の内容を正確に書いてくださっているのはありがたいことです。ただ、紙面の都合で簡略化されているのでブログの強みをいかして、少し補足させていただきます。

「女一揆」と呼ぼうという主張をするのは、新聞記事が「女一揆」「女軍」と女性の貢献を強調していたことだけではありません。大正七年富山湾沿岸で起きた「女一揆」は、プレ近代の一揆であり、一揆というのは、越中民にとっては抵抗の手段であり、慣例的に使われていたものであったということです。そのことは、八月七日の『高岡新報』では、「祖先以来の潜在的熱血性を伝え、機に触れ、こにあえば、俄然として爆発すること珍しとせず」と書いています。さらに、「維新前後に起これる一揆的事変のみを数うるも・・」と岡田屋騒動、忠次郎一揆、地租騒動、壊し方騒ぎなど大小五六に上るとあります。そして、この大正七年の魚津、滑川など富山湾東部沿岸地帯で起きた女一揆は、「社会経済組織の欠陥を意味するもっとも重大の出来事と見なし、為政者並びに学者等はよろしく深甚の考慮を持ちうべき」とまで主張しているのです。


富山県警察史』にも、「明治8年以来、この地方の女だけで行われたこの種の行動は、これが23回目に当たっていた」という記述があるように、越中では「一揆」といえば「女一揆」がフツーのことであったのです。大正七年立ち上がった女性たちは、少し前の一揆、例えば1890年、1897年の一揆に参加した経験があったり、話を伝え聞いたりしていたわけです。彼女らにとっては、別に目新しいことではなかったのです。むしろ、富山でこうした民衆の抵抗運動があったことが、太平洋側の首都の人たちには重要なこととされてこず、全国に米騒動が波及したことではじめて富山(正確には新潟から福井あたりまでの日本海沿岸)の抵抗手段だった)「一揆」の存在が1918年に世に知らされたということでしょう。メディアなど除法発信の中央集権主義による格差が原因だと思われます。地方であたりまえのことが、全国にひろがってはじめて日の目を見たということです。

記事には、魚津市内の有志9名の方が「米騒動を知る会」をつくり、「大正7年の夏の騒動発生から今年夏に九十年を迎えるのに合わせ、昨年四月から、森の夢市民大学未来塾の講座として、米騒動発祥地に近い大町公民館で月一回程度、フォーラムを開いている。」とフォーラムについて詳しく紹介されています。地元の方たちがこのような勉強会をされるのも地方から発信することの重要性を感じておられるのだと思います。その意気に感じ、わたしもそうした活動を発信したいと思った次第です。そのうちケーブルテレビでこの講座の内容がまとめられるということです。

90年前富山の女達が投機により米の値段がつり上がっていることを知り、連帯してそれを阻止しようとした。実際に、富山では救済策がとられ一揆はほぼ成功したといえます。それが行動すれば世の中が変わるという人びとの確信となり、大きく世の中を変えました。ガソリンの値が投機によってつり上がっている現在、このことを改めて考えて見るのは必要なことではないかと改めて思いました。